100人それぞれの「答え」

写真:森田 貴英さん

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弁護士、映画『降りてゆく生き方』総合プロデューサー

森田 貴英(もりた たかひで)さん

経済成長とは何かと考えるなら、「そもそもお金とは何か」を考えないと。

Q. 経済成長とはどういうことですか

経済成長とは、一般的には、GNPやGDPが成長することだとされていると理解しています。

Q. それは望ましいものですか、それはなぜですか

うーん、難しい質問ですね・・・一定限度までは目標にしてもいいような気もしますが、一定限度を超えると望ましいものではないでしょうし、どうなんでしょうか?(苦笑)

Q. 経済成長は必要でしょうか、それはなぜですか

必要か不要かというよりも、人間が持っている欲や本性からすると、人間社会が経済成長を望む方向に行くのはやむを得ないのかな、と思います。 

Q. 経済成長を続けることは可能ですか、それはなぜですか

それは不可能であると思います。なぜならば、地球上に存在できる人間の数も、また、消費することも生産することにも限界がありますから。経済成長には必ず限界が来ると思います。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、それは何ですか、なぜ生じるのですか

多大な犠牲を伴っています。まず、自然環境が害されるということ。そして、人間の理性・知性・感性・利他心・道徳心・倫理といったものが喪失されます。それは、今の日本を見ていれば明らかです。つまり、経済成長を最優先の価値とする社会では、心が破壊されていくということだと思います。

Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか

理性・感性・知性・利他心・道徳心・倫理・人間性といったものすべてが失われていると思います。

Q. 「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると考えますか

現在の一般的常識である「経済成長」の定義と、「持続可能で幸せな社会」は、明かに相反している、両立しないものだと思います。ですから、「経済成長を目指す」ということは、「持続可能で幸せな社会を失う、捨てる」ということをよく理解した上での決断が必要であろうと思います。

Q. 追加の質問です。「経済成長は望ましいか」という問いに、「ある限度までは望ましいが、それを超えたら望ましくない」というお話でしたが、その「限度」はどうやって決まってくるのでしょうか?

先ほどは、そのように言ったのですが、ご質問に一通り答える中で私が気づきましたのは、「私たちが経済成長を目指した時点で、すでに『破たんする未来』に向かってスタートを切っていた」ということです。つまり、経済成長を目指し、経済成長を社会の最優先の事項にした時点で、「持続可能で幸せな社会」は崩壊することが既に、内在的にセットアップされていたのだと思います。そういう意味では、「経済成長は望ましくない」というのが、私の考えになるでしょうね、修正になりますけど(笑)。

──「経済成長を目指した時点で持続可能で幸せな社会が成り立たなくなる」というのは、どのような論理なのでしょうか?

たとえば、日本の戦後を見たとき、「経済成長を目指す」というのは、「物質的に豊かになる」「お金を儲け続ける」「お金によって死ぬまでの安心・安全を確保する」――そのためには経済成長が必要だった、ということだと思います。それがfirst priorityだったわけです。

それまでの歴史上、日本人を含む人類、は、食糧や生存が最優先事項であり、お金を最優先にしたことはなかったと思います。もちろん貨幣は重要だったのですが、それほどの力やpresenceもなかったと思います。

では、日本社会で、第二次大戦以降の経済成長第一主義の前は何だったのか? と言うと、先祖から受け継いだものを次の世代につなげていくことをやっていく、ということだったと思います。つまり、「家」というものがもっとも大事であり、家族も大事、お墓も大事だ、ということです。

たとえば、「お墓参りをする」ことは、単に先祖に感謝するというだけではありません。実は「自分が死んで墓に入った後も子孫たちがずっとそうやってくれる」ということがある。その安心感や安定感は非常に大きいものだったと思います。それが日本人の「里の思想」です。それは、「持続可能」にとどまらず、「永続」の社会であったと思います。

それが、戦後、焼け野原になり、「とにかく物質的に豊かになろうよ」ということになり、もともと日本人が持っていた永続性の思想のようなものを捨てたのだと思います。アメリカ的な物質的な人生哲学が素晴らしいということになってしまったのです。

だから、経済成長にプライオリティを置いた時点で、かつての日本人的なものは放棄しないと成立しなくなったのです。

経済第一主義でとことん行ったらどうなるか、というと、家族も崩壊、地域も崩壊、経済そのものもクラッシュしていき、安定性を失い、自然環境は破壊され、われわれの生命もどんどん劣化して......ということが必然だったと思います。

「経済成長が第一だ」という思想、core beliefを持った時点で、「未来においては破たんする」ことが必然だということは、かつては日本人はみんなどこかわかっていたのではないでしょうか。

それゆえに、日本人の中にも、「そうなるから、お金第一じゃいけないよ」と言い続けた人はたくさんいたと思いますが、かき消されていきました。人間の欲というものは都合の悪い正論や未来をかき消すものなのでしょう。

すごく面白いと思うのですが、日本人的な里の思想で、「うち」と言ったとき、指し示すのは、単に現在する「自分」ではなくて、過去に存在していた人々や未来に存在する人々までも含む「われ」であったと思います。

日本人は、過去も未来も全部包摂したところでの意思決定をしてきたのだと思います。だから「ご先祖様に申し訳ない」と言う(笑)。そして、そこでは自然環境も大事になってきます。われわれは自然の一部だということがあって。

「自然」というのは、「しぜん」と「じねん」という読み方がありますが、「しぜん」というのは「ネイチャー(nature)」ですが、「自分は切り離されている客観的な存在としての自然」を意味するそうです。これに対し、「じねん」と言ったときには、そこに「自分」も入っている。つまり、「自然」が、「じねん」から「しぜん」に変化したことが、明治以降の大きな変化だと思うのです。

ところで、「国民主権」という概念がありますよね。自分は法律家なものですから、憲法も昔司法試験のときによく勉強していて(笑)。日本国憲法の基本原理のひとつが「国民主権」なんですが、それはフランス革命の時に強烈に出てきました。

国民主権における「国民」とは何か?には、2つ考え方があります。「ナシオン」と「プープル」、英語で言うとNationとPeopleですね。「ナシオン主権」と、「プープル」主権の2つの種類の国民主権があると言われています。

「プープル」というのは、現実的に生きていて実際に権力を行使する国民という意味合いですが、「ナシオン」の方は、「観念的・抽象的な存在としての国民」と言われていて、その国民には、過去の国民も未来の国民も全部含む概念だと言われています。 だからこそ、国民主権において、主権者たる国民が「今」制定した法律であっても、今は存在していない未来の国民たちも拘束するということなのです。

「ナシオン」という「国民」は、時空を超えて考えている点で、さきほど話した日本的な「里の思想」に非常に似ているなと思います。今生きている私たちだけがメンバーなのではなくて、過去に生きていて死んでいった先祖たちも、また、まだ生まれていないが未来に生まれてくる子孫たちも、みんなメンバーなんだと。洋の東西を問わず、そういう考え方があったのかなという気がしますね。

ですから、今のわれわれだけで決めてよいのか? 過去や未来の人々のことを考えなくていいのか? しかも多数決で決めて、それが正しいと本気で考えているのか?ということが問われているように思います。

日本では、多数決による民主主義が導入されなかったのは、遅れていたのではなくて、もしかしたら、そんなことあり得ないだろう、今の人たちだけで、しかも過半数で決めて正しいなんていうことが、あるわけないじゃないか、ということが、かつての人々にはみんなわかっていたからではないかと思うのでます。多数決を採用しなかったのは、遅れていたからではなくて、間違えているからだ、ということです。多数決は絶対に正しいという思想ないしドグマを採用してしまったから、今、こんな大変な目に遭っているのではないでしょうか。

かつては、何度も村の寄り合いを開いて、みんな納得するまでとことん話し合ったと言いますね。ネイティブアメリカンも、会議をするとき、必ず空っぽの椅子を置いて、「過去・未来のわれわれの席」とすると聞いたことがあります。その人たちの存在をみんなで感じながら話をするのですね。

そこを感じていくことがすごく大事なことです。「過去・未来のわれわれの席」はある種の「神」だと思います。「いないんだけど、いるんだよ」という存在ですね。

僕もいろいろな所を取材したり、いろいろな人と出会って話を聞いてきましたが、日本の田舎に行くと、道祖神というのがあります。男根神ですね。「なぜ、こんなものがどこにでもあるのか?」と不思議だったんですが、そのことを、田中忠三郎さんという人に聞いたことがあります。

忠三郎さんは、浅草にあるアミューズミュージアムの館長だった方で、民具研究家として非常に優れた方です。去年亡くなりましたが、『物には心がある』という名著に、僕は非常に感動して、それで一緒に企画をやったり、お目にかかったりしていました。

忠三郎さんはこう言っていました。忠三郎さんが若いころは、まだ「夜這い」があった。それで子どもができる。どこの子だかわからないわけです。そうすると村中が大騒ぎになります。「一体だれが妊娠をさせたのか?犯人捜しをしよう」という話にもなるのですが、結局、「そんなことを言っても解決がつかないから」と、長老が道祖神を持ってきて、親父が「こいつがうちの娘に悪さをした」ということで、ペシペシたたいて、「うちの村の道祖神がやったことだから、村の子どもとしてみんなで育てるしかないだろう」ということで収まり、居づらくなった奴は去って行く。そんなことがあったそうです。

つまり、人間だけではどうにも解決がつかないのですけれども、この道祖神という神様が存在していることで、みんながむちゃくちゃ納得して、丸く収まるんです。神ってそういうものなんじゃないですかね。神様がいることで、一見不合理なことであっても、われわれがむちゃくちゃ納得できるという存在だということを、身を持って感じるんですね。神様は物理的には存在していなくとも、自分たちの心の中にいてくれるのです。

さっき枝廣さんがおっしゃったネイティブアメリカンが過去や未来の人の椅子を置いておくという話、それは偽りのことではなくて、きっとそこに本当にその人たちがいるんですね。「こういうふうにやったらご先祖さんに申し訳ないよ」とか、「土地をこんなふうに白人に売り払ったら、未来の子孫たちはどうやって暮らしていくんだ」というイメージがリアルにわくわけです。

でも、それは虚構ではなく、確実に自分たちの心の中に存在しているから、それでみんなが、心から真実だと思って納得するということですね。それで、すべてが収まっていく。社会が回っていく。

そういう意味から言うと、社会がうまく回っていかないのは、社会を支える神話がないからなのでしょうね。リアリティのあるファンタジーです。ファンタジーというのは、虚構やフィクションではありません。リアリティがないとファンタジーにならないのです。

そういう意味で、「経済成長」を考えると、それは現代の日本や世界の「神話」なんですね。「経済神話」、もっと言うと「貨幣神話」です。「お金がわれわれの幸せをつくるんだ」という。「お金が幸せをつくる」ということに関しては、おそらく日本に限らず、世界中の人々のコンセンサスが得られると思います。

つまり「お金」という「神」ですね。「貨幣一神教」は、現代国際社会そのものもだと思います。「お金以外に信じられるリアリティがない」のが現状なのでしょう。

経済成長とは何かと考えるなら、「そもそもお金とは何か」を考えないと。「お金とは何か?」――それは実は法律で決まっているわけでもありません。お金とは何か、誰も教えてもいない。生まれた時から何となく知っているもの。でもみんなが、時には命よりも大事にするものですよね。そういう意味では、お金は「神」であり、「お金教」になっているのですよね。

「お金とは何だ?」をここで考えてみますと、お金は目の前にモノとしても存在しますし、情報としても存在していますが、結局、お金が支配しているのは「人間だけ」なのです。お金は人間以外の「動物」や「植物」を支配しているわけではない。

ということは、「お金」とはあくまで「人間の脳」の中にプリセットされてしまっている存在だということです。そう考えると、われわれは経済やマネーが敵だと思っているけれど、それは即ち、実は「自分の脳が敵なのだ」ということなのです。つまり、私たちは、自分の脳に、自分の心と体が支配されているのです。私の脳が、私の心と体を支配し、苦しめている。非常に不思議な状態です(笑)。

お金教、貨幣一神教が、一部の人たちだけでなくて、ほぼすべてを支配していますよね。それはなぜなのでしょう?

世界的に見ますと、約1万年前に、狩猟採集社会に農耕牧畜革命が起こります。これがお金教、貨幣一神教の出発点なのだと思います。

日本で言えば、弥生時代になって稲作農耕が入ってくる。中東やヨーロッパでは小麦ですね。気候変動があって、寒冷期に入り、食べ物がなくなって、狩猟採集できなくなり、さあ困ったという時、必死になって何かを育てようということで始まったのです。

当時の人々がいろいろやってみて農耕作物としてよかったのが「稲」と「麦」でした。麦がいいのは、1粒まいたら500倍、イネならもっと、増えるんですね。増殖する。種を採ってまた増殖するという構造が出てきました。エジプトあたりでは麦を中心とした社会が形成されていき、貧富の差が発生して、ついには、ファラオみたいな支配者と、支配される奴隷が出てくるわけです。

ローン契約などの「消費貸借契約」というのは、もともとは、米や麦などの種の貸し借りが発祥なのです。お金じゃないのです。「同じ性質のものを同じ量返してくれればいいよ」とか、「約束してくれた量を利息でくれればいいよ」というものです。利子・利息というのは、米や麦の種を貸し出して、作らせて、「貸してやるから、これだけ寄こせよ」というのが発祥なのです。

そのうち、穀物のクオリティが一定になってきます。特に、技術が進み、精製することでより一定になってきます。そうすると、「だれそれが作った麦だ」ではなく、ある一定のスペックの麦ならOKというように、「種類物」という概念になってくるわけです。

麦を倉庫で預かるときに、たとえば「麦1トン」という貨物引換証のようなものが発行される。現物でやりとりすると大変ですからね。なので、現物ではなく、この引換証を売買することで、麦という当時の社会を支配する物のやりとりがされるようになっていったのです。

米も、麦も、トウモロコシも、サトウキビも、主食はすべてイネ科植物です。これを収穫して、保存して、食べるときに精製する。ちなみに、これが、非常に中毒性が高い。今、メタボの原因はほぼこれらのせいであることがわかっています。

そういうことを見ていくと、イネ科作物というものは、時代や技術の進化とともに、価値が一定・均一になっていき、種類化していった。つまり「抽象化」されていったわけです。イネ科植物が精製されて抽象化することによって、人を支配する手段と化していき、貧富の差がある社会が生まれた、と言っていいと思います。

均一化・抽象化してみんなを支配できるものを突き詰めると何になるか?それが「貨幣」です。貨幣は抽象化の極みですから。だから、法律でも「貨幣には所有権は成立しない」言われているくらいです。貨幣とは価値ですから。

貨幣はもともとは硬貨や紙幣といった有体物でした。しかし、科学技術の進展で、それらの価値はさらに抽象化されて、紙や金属といった有体物は本質ではなくなり、いまや銀行口座の数字という「情報」こそが「貨幣」という「価値」の本源になってしまった。

農耕牧畜革命によって、主食となるイネ科作物が生まれ、人間社会を支配した。その価値の抽象性をさらに押し進めることによって「貨幣経済社会」が生まれ、さらにその価値が抽象化されて情報化することによって、貨幣一神教は強化され、今日の「グローバル経済社会」が出来したわけです。

このようなヒストリーを見ていかないと、経済成長やマネー資本主義の問題の根源は見えてこないのですね。

もう1つ面白いのは、古代エジプトなどで貨物引換証みたいなものを出すときは、発行日時を特定する必要がありました。なせなら、当時は、保存技術が完ぺきではないから、古ければ古いほど価値が劣化したからです。この貨物引換証はいわばは「劣化する貨幣」だったのです。

日本での地域通貨のブームの先駆けとなった『エンデの遺言』にも、「価値を劣化させていくことがポイントだ」とありましたが、最初はそれにかなっていたのですね。

貨幣や有価証券の裏打ちとなっているものが、時間とともに劣化するものだったら、お金はここまでの猛威は振るわなかったと思います。しかし、それが「金」(きん)に置き換わっていくのが非常に象徴的ですね。貨幣に対する裏打ちが、永遠不滅のものに変わっていったのです。

しかし、金の裏打ちがありましたから、金本位制の間は、「「金以上の価値は創造されない」という上限がありました。

ところが、ニクソンショックで金本位制が崩れていくところから暴走が始まっていきます。
「金(きん)の裏打ちがなくても、お金というものは価値があると皆さんが信じ切っているでしょう」ということで、シフトしたのだと思いますが、このもくろみが非常にうまくいってしまった。

今では、貨幣一神教、経済成長至上主義で、心の破壊を含め、大変な状況ですよね。この先はどうなりそうなのでしょうか、もしくは、どのように変えることができるのでしょうか

私の人生の師匠でもある『奇跡のリンゴ』の木村秋則さんと一緒にいる時、日本が経済成長しないという話があったので、「木村さん、どうやったら経済成長ってするんですかね」と聞いたんです。

そうしたら木村さんが言うのは、「森田先生よ、経済は土なのよ。土っていうのはよ、黒土が一般にいいと言われている。赤土は良くないと言われているんだけれども、実はそうじゃない。本当は、一番いいのは、黒土と赤土を混ぜてやること。そうすると、非常に地力が上がって、作物が育つのよ」。

「黒土というのは、古い土。欧米とか日本みたいな経済的に先進国の所よ。赤土は、新しい土。中国とかシンガポールみたいな新興国よ。古い土と新しい土をうまく混ぜてやっていくと、ちゃんと種をまくと実がなるのよ。だから、これからああいう所とうまくやっていかないと駄目なのよ」と、これほど中国やシンガポールが大きく出てくる前に、言っていました。

僕は、経済を何かにたとえた人は初めて見たので、非常に感動しました。

木村さんからいくと、「経済も土なのよ。社会も土なのよ」ということです。「社会や経済は土である」と考えると、経済成長を志向するということは、土に対して「できるだけたくさん採ってやろう」「効率良くたくさん採ろう」という考え方だということになる。だから「化学肥料をたくさん使おう」「たくさん植えよう」と。

作物は過密になってくると病気が出るんです。病気が出たら、「農薬を使えばいい」という話になる。これを繰り返すと、どうなるか。土の力はどんどん落ちていって、土は硬くなり、生命力がなくなって、作物ができなくなる。

経済成長というのは、畑に肥料・農薬をぶち込んで、延々に採り続けようという発想です。ということは、もう無理なんです。土自体が破たんしていきますから。

それを無視して「じゃあ、もっと肥料や農薬を入れればいいじゃないか」「新しい肥料を開発しよう」「新しい農薬を開発しよう」とやっていこうとしているので、破たんします。土には限度がありますから。

僕は、木村さんの「社会と経済は土なんだよ」というような、「置き換えて考えてみる思想」はすごく大事だと思います。ビジネスマンや法律家の行政マン話しって、全部、概念の話なんですね。法律とか経済とか。経済成長も概念じゃないですか。

ところが、自然栽培の世界や自然発酵の世界を追い求めて考えていくと、真理は必ず何かに置き換えられるんだ、ということに気付くのです。メタファー的やアナロジーで必ずいける。

私は最近よくフェイスブックに、「相似形」(フラクタル)の話を書いているのですが、たとえば、木村さんのリンゴ畑が自然な形で回っているのが小さな場所での真理だとすれば、私たちがすべきことは、木村さんのリンゴ畑の世界と共通する大きい相似形をどれだけつくるかという話に尽きると思っています。こういう発想は、法律家や、ロースクール、MBAの発想では絶対出てこない。自然のリアリティと真理に全身全霊で向き合ってきた人たちの発想なのです。

宇宙物理学者の佐治晴夫先生という先生と親しくなって、非常に勉強させていただいています。物理学とか数学の世界は、文系の私からすると一番遠い世界だったのですが。

感動したのは、ある物理学者が新しい定理や数式みたいなものを考えて、それを世界の天才物理学者たちが認めると、それが新しい定理になるのですが、その基準は、「美しさ」だということです。「美しいか、美しくないか」で決まる。「これが真実らしいぞ」と言っても、「美しくない」ものは却下されるのです。

これは実は、数学の世界でも同じです。日本の生んだ最大の数学者と言われている京都大学の岡潔さんが、小林秀雄さんとの対談『人間の建設』で言っていますが、数学で新しい定理の証明ができたかどうかは、世界の数学者たちが美しいと感じたときに成立する、と。みんなが美しいと思わなければ駄目だ、と。

宇宙物理学者たちは、「真理は絶対美しいはずだという確信がある」のです。たとえば、アインシュタインの「E =mc2」という特殊相対性理論の数式。あれで宇宙が描ける。ああいうのに物理学者たちがめちゃくちゃ感動しているわけです。真理は美しいはずだ、美しくないのは真理ではない、と。天才物理学者や天才数学者たちはみんなそう信じている。

それは、自然栽培や自然発酵などの世界もまったく同じです。正しく作られているもの、自然のものは、美しいし、味も美しいんです。

では、「経済成長」という言葉は、果たして美しいでしょうか?「経済成長を目指す」と言っている人たちも、何か美しく感じないですね。それに対して、木村さんの笑顔ってすごいです。そこに正解があるからですね。

「美しさ」というのは、まず「感覚」としてやってくる。知識や情報や概念ではない。美しさというところに、実は真理がある。「美しさ」を感覚できる能力、これは、人間の最後の能力かなと思います。

法律家って、美しくないことをたくさんやります。最終的には財産を奪うとか、死刑で命を奪うとか、自由を奪うとかというのが法律の世界なので、美しくないんです。根本的には、力と支配の世界ですから。

僕は、日本人って、美しいことをしてきた民族だと思います。ですから、安倍さんが前の政権の時、「美しい国」と言ったのは、いい線、行っていたと思うのです。ところがいまは、「美しい国」が、今度は「アベノミクス」でしょう(苦笑)。「アベノミクス」って、言葉がすでに美しくないじゃないですか。

「美しい国」が失敗して「アベノミクス」が受け入れられるということは、悲しいかな、日本と日本人の現状を示していますね。


インタビューを終えて

映画『降りてゆく生き方』には私も感動し、影響を受けています。この映画の原案をつくり、総合プロデューサーを務めた森田さんはものすごい勉強家で、ジャンルや時代を超えて、さまざまな本を読み、たくさんの人に会いに行かれます。その知識と知見を縦横無尽に織りなして創り出す考え方には、いつも圧倒され、刺激を受けていますが、今回も、里の思想、神の存在、貨幣の成り立ちなど、いろいろなことを教えてもらいました。「ヒストリーを見ていかないと、経済成長やマネー資本主義の問題の根源は見えてこない」――もっと勉強しなくては!

取材日:2014年6月6日


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