100人それぞれの「答え」

写真:松本 さつきさん

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漫画家

松本 さつき(まつもと さつき)さん

"すべてを見ている神さまがいて、自分はその自然の一部なんだ"という感性を失ったから、「経済成長第一」を続けてきたのでは

Q. 経済成長とはどういうことですか、何が成長することですか。

社会という視点で言えば、GDPが上がる事。より生産と消費が総体として増えること。

個人でいえば、年収が上がる事です。

Q. それは望ましいものですか、それはなぜですか。

社会という観点では、使い捨ておよび資源の無駄遣いがこれ以上増えることが望ましくないのは一目瞭然。

ただ、個人レベルで言えば、年収が上がるのは大歓迎であり目標でもあり...激しいギャップがあります。

Q. それは必要なものですか、それはなぜですか。必要な場合、いつまで、どこまで、必要でしょうか。

社会的に見れば、地球環境を破壊し、人間を含めた生体系の首を徐々にしめている行為をなぜしているのか不思議なほど、必要ないと思えます。が、すでに出ているインタビューでも時々キーで出ている、「社会レベルでなく会社レベルだと成長は必須となる」現象が、まさに個人レベルである自分の実生活でも起こっています。

実際に、自分の現状が今の社会とどこか構造が一致しているかもという考察のために、ここからは自分の現状についてつきつめていきたいと思います。

個人でいうと、自分の仕事が成長していくことは自分のモチベーションになるので、自分のやる気を支える要因として大きい位置のもの―と、なっています。夫は、お金を稼げること=自分の能力があること、と感じられるようです。

実際、住むことと食べることに困らないから、成長しなくても今まで通り生きていられるのだとは思います。でも、「成長しないこと」は「変化しないこと」「つまらない」とどこかで結びついている事も確かです。

自分が興味があることを深めるために学びたい、子どもと旅行して思い出を作りたい、服を新しくすると心がうきうきする、など、お金があれば叶えられることがたくさんあるし、お金でないと代わりが効かないこともあります。自分の人生を納得して生きる、楽しんで生きる上で自分が必要だと思ったお金は堂々と使いたいし、成長して稼げばいいと思います。

ただし、なんとなくあれもこれも欲しくなって、本当に自分にとって必要でないものまで欲しい状態だと、行き過ぎです。そのラインは、私にとって理論的な説明ではありません。例えば服は何着、とか旅行費は年に何万円、ということではないんです。

自分にとってどこまでが必要なもので、どこからが必要でないのか、そのラインなのですが、それは自分が「乱れていない、クリアな状態」でいるときに、感覚的に「わかる」という感じです。

「お金が足りない!」「もっとあればいいのに!」と思ったときは、すでに不自然な、自分が乱れている状態です。分相応でいられないからです。

自分がニュートラルな状態でいられるときは、不思議と余計な欲求がわきません。そして、必要なものや必要な成長に対してはポジティブに「もう少しお金を貯めたりがんばろう」と思えます。そういうときはちゃんと体の力が湧くのが感じられます。

とても感覚的なことですが、感覚を鈍らせないというのは私はとても重要な事だと思っています。幸せとは結局、これがあれば幸せという条件よりも、その人が幸せと感じるなら幸せという、いたって感覚的なものだからです。

長男出産後、マクロビオティックや代替療法など、ナチュラルやホリスティックのアプローチも好きで勉強していました。その中で得た疑問は、日本人は今非常に鈍感で不自然なのではないかということです。

伝統的な日本食から離れた食事や、親や学校などによる既成概念、化学的および人工的な物質の摂取、自然と切り離された住環境、刺激的な映像や音の溢れるテレビやゲーム...などなど、「普通」と思われているものは大抵、本来の人間の健康な体と精神を阻害してくるものであるに関わらず、それにみんなが染まっているのでなかなか不自然とも思えない。むしろ、みんなと違っては焦る空気があるほどです。

こんなに豊かな社会のはずなのに、自分の人生が豊かだと思っている人は果たしてどのくらいいるのでしょうか。身を持って自由を享受してると感じられず、むしろ窮屈で不自由だと感じるからこそ、どうにかしたくて頑張っている、というほうがよほど多いのでないのでしょうか。

平たく言うと、自分以外の余裕があまりないのです。社会の事、地球の事よりも、自分の生きているエリアだけでキャパがいっぱいなのです。気が回らない、手が回らない、あとは自分に関係がないと感じる。

身体的な観点でいうと、人間の本能は2段階あって、1段階目は「自分の生命を守る」欲求なのだそうです。自分が「守られて」生きている、という安心感が充分得られた次に、「種を残す」という社会的な本能が開くのだそうです。

社会的な本能が開くと、「どうやったら次世代が安心して暮らせるか」ということに自然と関心が向きやすい。自分自身に余裕という土台がないと、社会全体の問題に自分が積極的になる元気が出てこない、という訳です。

ところが、日本人は幼いころから自主性よりも規律的に生きることを重視され、「それはダメ」「いい子にしなさい」など否定的に育てられることが多く、先進国の中でも自己肯定感が極端に低い事がよく言われています。

ありのままの自分を尊重されないと、「自分は安心して生きられる」という1段階目の本能が満たされません。その段階の人の割合が圧倒的に今多いのではないかと思います。毎日をこなすだけで一生懸命、休みの日はストレス解消、というパターンはこの段階で止まっています。

また、実際に関わり合いのある人間関係の中で人生をエンジョイできればよい、という狭い世界の中で、見えるものや選択するものが帰結している場合も多いと思います。

みんなが不自然であるから、特別自分が「おかしい」とは思わない。危機的な状況であるのは皆知っているのに、本気で危機感を覚えないのは、身体的にも心の感受性も鈍感だからだとみています。

Q. 経済成長を続けることは可能ですか、それはなぜですか。

(個人レベルで)

「成長」という言葉にはふたつのニュアンスがあります。

自分が人間的に成長する、そしてその結果仕事も拡大し収入も増えるというニュアンスがひとつ。

もうひとつは、目標第一主義的な、拡大先にありきという発想のニュアンスです。たとえば、先に「年収○○万UP!」という目標をかかげ、それに向かって計画を立て自分を発奮させ頑張るというのが後者です。

私は、前者であれば歓迎です。

後者は、どこかで頭打ちになると思います。自分の身の丈にあった収入のうちはいいですが、それ以上を求めても、どこかで無理が出てくるはずだからです。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、それは何ですか、なぜ生じるのですか。

(個人レベルで)

収入が増えることにこだわる犠牲としては、色々あると思います。それが不健全な場合は。

例えば...と考えると、抽象的な言い方ですが、お金以外の豊かさの発見です。私の過去の話ですが、ゆっくりと食事や会話を楽しむこと、今置かれている境遇や手に入っているものに感謝して、それを味わいつくすこと、健康への配慮、美しいものを楽しむこと、手間をかけることの喜び、などです。

経済成長が、健康的な取り組みの中での「結果やついで」として起こっているのであればきっと犠牲はないのですが、経済成長が「目標」となったとき、それ以外の要素が犠牲になる事は良くあると思います。目標を達成することに集中して、他の要素がいいかげんに扱われてしまいやすいのではと考えます。 

Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか。

個人レベルでなく、日本全体を考えますが、これは少し逆でないかと思いました。

最初に「失っている」から、「経済成長第一を続けてきた」のではと感じます。

失っているのは何かと考えましたが、「絆」です。

3の質問で、否定的に育てられたために、1段階目の「生命が守られる本能」が満たされていない、と書きました。逆に言うと、自分が守られて生きている...という安心感は、基本的には親から得るのですが、根っこをたどると「お天道様」のようなものに行きつきます。

人間は、根源的に「自分がいつどうやって死ぬかわからない」という不安を抱えた生き物のようです。その状態で、「お天道様がいない」考えだと、明日の事は何もわからない、人生は得した者が勝ち...という事になり、自分さえよければいいという考えが正論になります。

アイヌでは、自然の作るものはすべて神さまが宿ると考えられていました。一寸の虫にも五分の魂といいますが、それぞれの植物や動物には霊が宿り、自然全体を司る、すべてを見ている神さまがいて、自分はその自然の一部なんだ、という感性のことを、私は「絆」と書きたかったのです。

この地球上で生きている生命は人間だけではありません。でも、絆が失われ、いかにも人間だけで生きているかのような感覚でみんなが生きた結果が、経済第一主義なのだと思います。もし最初に絆が失われていなかったら、人間の道は曲がらなかったと思われます。

Q. 「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると考えますか。

人は、伸びていきたい生き物なのだとしたら、あとは伸びる方向性の問題なのだと思います。

利益を求めるのか、別な何かを求めるのか。

私たちは、年収という見えないステータスに、どうしても縛られがちです。

しかし、本来年収と、幸せな生き方は、関連付けなくても済むはずです。世間は強迫的なほど、個人を「もっとこうできるはず」と誘ったり、何が誰が悪いのかという論理に向きがちですが、そうではなく、自分が自分と人生に納得することが幸せの第一歩だと思います。

個人の幸せは、自分でしか責任がとれません。まずは自分が自分を底から「これでよい」と肯定できることであり、それさえあれば、もう足りない何かを埋めるための消費行動は生まれないのではと思うのです。

幸せな社会とは、そんな人たちが集まる社会ということではないでしょうか。持続可能とは、エネルギーを消費するのでなく、エネルギーを循環させることであると定義するならば、幸せな人は、幸せを個人の範囲で独り占めせず、どんどん周りに波及させ人を助けていくことは循環のひとつです。

そして、お金をかけることよりも、手をかけることへのシフトかなと思います。オシャレひとつにしても、お金があれば素敵な服やアイテムは買えるけど、自己分析をして自分に似合うものを知るという「手」がかかっていないと、今一つです。住まいや、食べる事という生きる基本的な事に関しても、ただお金をかければいいというより、毎日住まいが手入れされたり、買うより手で作ったご飯の方が明らかに良いことでしょう。

医療も、お金をかけた治療よりも、普段から健康管理に自分の手をかけてあげるほうが元から有意義です。農業も、工業的生産よりも、有機農法のような手のかかったもののほうが結果的に人を健康にします。教育も、お金をかけて塾や習い事よりも、手がかかっても好奇心を刺激し、熱中体験を与える方が結果的に学力も伸びる事がわかっているようですね。

手をかけるというのは、何においても本質的なのだと思います。

ただお金をかけただけのものは、非常にもろいのです。

「経済成長」ありきでは、数値以外の要素はどうでもいいという事になります。しかし、目標を数値でなく、本質的なものへのチャレンジや追求にしていけたなら、それは「持続可能で幸せな社会」に直結していけるのではないでしょうか。


インタビューを終えて

「経済成長が続くことは、社会全体では資源の点からなど望ましくないのは一目瞭然だが、個人レベルでは、年収が上がるのは大歓迎であり目標でもある」という「激しいギャップ」を感じているのは、経済成長が続くことを疑問視する人々の中にも多いのだろうなあと思います。地球全体では物理的な"限界"があっても、それが個々人に割り当てられているわけではありませんから、今は個々人の"限界"を設けるのは各自の倫理や覚醒に頼らざるを得ないのが現状なのだと思います。

それについて、「自分にとってどこまでが必要なもので、どこからが必要でないのか、そのラインなのですが、それは自分が「乱れていない、クリアな状態」でいるときに、感覚的に「わかる」」という指摘もとても大事な点だなあと思います。

「成長しないこと」は「変化しないこと」「つまらない」とどこかで結びついている」という指摘も、多くの人が感じていることを明瞭にしてくれたものだと思いました。「定常経済」は、経済の規模は成長しませんが、活発な経済活動が行われ、新しい企業や事業が展開し、古い企業や事業は消えていき、絶えず変化していきます。「定常」というと、静的・不動のイメージがありますが、「規模が成長しなくても、変化はあり、つまらなくない」というイメージにどう変えていけるかも考えていく必要があるなあと思いました。

「日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか」という問いに対して、「逆でないか。"すべてを見ている神さまがいて、自分はその自然の一部なんだ"という感性を"失った"から、"経済成長第一を続けてきた"のでは」という指摘にはうなりました。たしかに、いろいろな意味での箍(たが)を失ったから、さまざまな限界や本当に大事なものを度外視しての経済成長に走っている、とも言えるのでしょう。

「自分が自分と人生に納得することが幸せの第一歩」「持続可能とは、エネルギーを消費するのでなく、エネルギーを循環させること。幸せを個人の範囲で独り占めせず、どんどん周りに波及させ人を助けていくことは循環のひとつ」など、大事なことをたくさん考えさせてもらいました。

取材日:2015年1月17日


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