100人それぞれの「答え」

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メタノイア・リミテッド代表取締役、STARクラブ主宰

田村 洋一(たむら よういち)さん

一般の人たちの暮らしを豊かにする本当の成長を測るモノサシを今、われわれは失っている

Q. 経済成長とはどういうことですか。何が成長することでしょうか。

難しいですね。答えやすいほうからいくと、GNPとかGDPで測っていますよね。あれが間違いのもとです。じゃあ、どのモノサシで測ったらいいかというと、コンセンサスも正解もない。

GDPで測ると、金の動き、モノの動きで操作可能です。アメリカのバーナンキの量的緩和と言って、インフレにしてモノの値段が上がって、実際、庶民の生活は全然良くなっていないのに、一見数字が上がっているという、あれが数字のマジックです。

アベノミクスも同じことをやりつつあるというか、やってしまったというか、やろうとしているというか。

本当は、必要な経済成長というのがあって、それはGDPではなくて、人の暮らしが良くなることです。たとえばものづくりの会社だったら、いいものをつくって、たくさん売れて、売り上げが上がって、社員の給料が上がって、「豊かになりましたね」と素朴に考えられるんだけど、経済全体だと、そうならないんです、いろんなマジックが入るので。そこが間違いのもとです。

枝廣さんに声を掛けてもらった時、日本が国力を落とすべきでないという、あの国力というのは、軍事力、経済力、文化力、ハードパワー、ソフトパワー、スマートパワーというものですね。あの時の経済力というのは、GDPのことではないんです。

モノのたとえまでは、多分そんなに難しくない。たとえば、わが家という核家族がいて、5人家族がいる。収入を稼いでいる人がいて、出ていくお金があって、収入が少ないより多いほうが、暮らしは豊かですよね。だから十分稼ごうとする。

ところが、稼ぎが上がれば上がっただけいいのかと言うと、そうではなくて、分相応の稼ぎというのがあって、わが家の核家族、5人家族が豊かに暮らせるために、法律に触れなければ悪いこともやってもいいというわけではない。それはシステム全体、コミュニティとか、町とか国とか世界とか環境とかという中で人間は生きているので、そういうふうに考えなきゃいけない。

ところが、核家族の家計の数字が、10万円が15万円になりました、20万円になりましたと言って、それで豊かになったというふうに、限られた、恣意的な、非常に限定されたモノサシで測って、それを目標にしてしまうという、結果でしかないものを目標のモノサシにしてしまうというのが、政策上の間違いです。それがバーナンキの間違いであり、アベノミクスの間違いであり、別にバーナンキや安倍さんが特別愚かなわけではなくて、ずっとそれでやってきたんですね。

われわれも、高度経済成長のころは、GNPが上がって、日本は豊かになって、貧しい国から豊かな国になったと、豊かさを実感できたのが、実感できなくなっている。ある意味、豊かになりすぎて飽和しているということもある一方で、モノサシと結果という、実態とモノサシという間の乖離が大きくなっているということだと思います。

──本当は、経済成長は暮らしが豊かになるということのはずだけど、今はGDPとかGNPで測れるもので。

ゆがんでいる。実態が実態以外のものになっている。

──目標になっているというのはそうですね。

そのものが複雑で難しいですが、もののたとえで言うと、試験の点数は、試験の点数が上がったからって、賢くなったわけじゃない。結果にすぎないのに、試験の点数を上げるための受験勉強って、予備校などでやっているものがあって。あれをやっても、忍耐力とか、要領の良さとか、いろいろ学ぶことはあるかもしれないけど、本当の学力にはならないですね。

そういうモノサシと実態の間の開き。

Q. そういう考えで経済成長を見たとき、経済成長が続くことは望ましいことなのか。その答えはなぜですか。

経済成長は必要です。ただ、大きく2つ問題があって、ひとつはモノサシ問題。本当に豊かな生活と関係のある、庶民というか、一般の人たちの暮らしを豊かにする本当の成長を測るモノサシを今、われわれは失っているというのが問題のひとつ。

もうひとつは、さんざん言われていることですけれど、豊かな暮らしとか、平和とか、安全とかということと経済成長の関係。経済成長の成長というのは、その中のごく一部でしかない。重要な一部だけど、一部でしかない。いろんなほかのものを犠牲にして、さっきの5人家族で言うと、ほかの家とか町とか、別のものを犠牲にして、この家計が良くなりましたというのは本末転倒で、長期的に見れば自滅的なことです。

でも、さらに言うと、そこから議論がすべりやすくなるところで、もうわれわれは豊かなんだから、経済成長は必要ないんだ、という極論があって、これは間違いです。

Q. それはなぜ必要でしょうか。

人が生きていく上で、生命の原則は、改善して成長していくか、衰退していくかしかない。人類が計画的に滅亡の方向に行くべきだという思想の人たちがたくさんいる。人類というのは、地球にとって害悪だ、人類は滅亡したほうがいいんだ、だから少しずつ計画的に滅亡していくべきだ、と皆が合意するんだったら、それは経済成長するのではなくて、少しずつ、あるいは劇的に衰退したほうがいいですね。

そうでない限り、成長は必要です。その成長の度合いと質について、われわれは知っておくべきだということです。

──そのときの経済成長というのが、さっきの指標問題とか、全体を測っていないとかあるけど、暮らしが良くなるという意味での経済成長は、改善とか成長とか必要だという。

そうですね。このお弁当、すごくおいしいお弁当ですけど、非常にたくさんの人たちがこれにかかわっているわけです。お米を作る人ももちろんだし、穀類や、お肉や。

──お肉は一切入っていない。

豆腐のカツなんだ。

──お豆腐とお魚のすり身みたいです。

これはすごい工夫だし、この工夫、労力に対して、みんなお金を払うわけですね。そういうことが経済の成長。モノを作って売って、消費して、ただ作って売ってではなくて、そこで頭を使ったり、手間暇を惜しまなかったり、こういうことが、本当の経済成長の根っこですね。

──そのとき、いわゆる一般の人たちは、経済成長、GDPの成長だと思っているけど、GDPの量的拡大は、伴う場合もあるし、伴わない場合もある。

それは結果であって、目指すものではない。それを目指してしまうと、いろいろおかしなことになる。一番わかりやすいのはインフレです。インフレにすればいいと。数字は改善するけど、それ、粉飾決算みたいなものです。暮らしはむしろ悪くなっているんですね。

逆にアベノミクス以前の、「デフレで困る」と言っていたころは、実はそんなに困っていなかった。給料は上がらなかったかもしれないけど、物価が下がって、悪くなかったんですね。失われた20年とか。結構それは庶民の1人として実感するところがある。

バブルのころに、やたら高くて、質の悪いものがいっぱい跋扈していたのに対して、バブルが崩壊して、もちろんいろいろ困ったこともあったけど、急激だったから、でも、デフレになって、モノの値段が安くなって、安い割には、結構いいものが台頭してきたりして、日本は暮らしやすいなと、それが一般生活者の実感じゃないかと感じます。

──そういう改善とか、本当の意味で良くしていくということで言うと、経済成長がどこで止まるとか、どこまでで止めるべきとか、そういうわけでなく?

逆に、経済成長が悪という説が昔からあって、30年前もディベートでやっていたんだけど、経済成長がこれだけ悪いと。デメリットで。ものすごいブリーフ読んで議論していたんですけど。それも同じ間違い。

経済成長は善、GDPを上げるのがいいというのと同じ間違い、GDPを下げたほうがいいという間違いを犯している。結果でしかない経済成長の数字を下げることには、何の意味もない。本当にそれで経済成長が止まったり、衰退したりしてしまえば、こういうおいしいものを安く食べられるということすら、破壊してしまう。

だから、貧しい人たち、貧困層からしわ寄せが行って、経済成長をスローダウンしていくことは、貧困層を切り捨てることです。

安倍総理大臣とか、あの人たちが本当にやりたいことは、暮らしを豊かにすることじゃないかなと思うんですね。でも、実際にやっていることは、消費税を上げて、法人税下げて、大企業と富裕層を優遇する政策にしているだけで、うまくいっているようには見えない。経済を豊かにして、国を強くしようという理念は間違っていないですね。

──測り方と目標がずれているということですね。

ずれている。

──お弁当の話で言うと、おいしいお弁当ですと。これが、経済成長を続けるとなると、ずっとさらに良くなり続けるということですよね。

でも、それは、飽和点があるんじゃないですか。

──そうすると、経済成長は飽和点がある。

たとえば、さっきの一家の家計で言うと、貧しい家はお父ちゃんもお母ちゃんも働いて、稼ぎを増やして。でも、それが仕事中毒になって、稼ぎのためにほかのことがおろそかになるというふうに、バランスが崩れたりするわけですね。

「稼ぎはこのくらいでいいから」と言って、いろんなほかのこともできるようにバランスを取る。そのバランスを取ることをワーク・ライフ・バランスとか呼んだりするみたいですけど、全体の中の一部であるというのは、そこでも同じですね。

一家の家計でも国の家計でも同じです。

──そうすると、どこかでバランスを取る時期が来たら、そこから先は経済は成長する必要はない?

する必要はないんじゃなくて、どこまでも成長、上を目指す、というわけではないということです。経済成長はマキシマムにするものではない。最大化するものではなくて、オプティマイズするものです。適切なレベルの成長をする。あまり劇的に上がっていくのは、明らかに何かおかしいですね。インフレ経済とか。あるいは、他国を搾取しているとか。

──さっきの家計はすごくわかりやすくて、どこかでワーク・ライフ・バランスとかを取る。お金を儲けるよりも、もっと子どもと時間を使いましょうとか。国のレベルでもそういうバランスを取る時期。そういう観点で言うと日本はどうなんでしょう。

日本は、日清、日露の時代は、軍事費が国家予算の何割でしたっけ。ものすごい富国強兵の、国民から税金を集めて、かなりの部分を軍事費に充てて。それは、軍事費の充てる必要性が少なからずあったからで、そうしないと、列強に侵略されて、スッカラカンになってしまう。

幸い、時代はもっと平和になっていて、軍事費は今、GDPの3%でしたっけ。比率からするとわずかで済んでいる。それでもあれをゼロにしたら、集団的自衛権どころか個別自衛権の行使もできないくらいになってしまうので、必要最低限の軍事力というところに来ているわけです。

同じことは、経済にどれくらいプライオリティを置くのか。それに対して、もっと文化とかソフトの領域、必ずしもお金にならない、でも、たとえば環境を保全するとかいうものとバランスを取っていくというところに、少しずつシフトしてきている。

40~50年前、高度経済成長の時期とは、経済のプライオリティは明らかに変わっている。

──多分、時代的、社会的にプライオリティは変わっているけど。だけど前のプライオリティで。

なくなったわけではない。日露戦争、第一次世界大戦のころ、軍事費が、ほんとにそんなに必要だったのかわからないけど、でもある程度必要だった。

今は、比率から言うと1桁少ないくらい経済のほうが重要。日本の場合は特殊事情があって、いろんな言い方ができると思いますが、アメリカが平和憲法を押しつけてきたと。あれは天照大神が作ったんだという説をこの間聞いて、すごくびっくりしたんだけど。

いずれにしても、平和憲法と言って軍備解除、disarmamentしたわけですね。軍隊を持たない。途中から軍隊持ったんだけど、申し訳程度に持つという。名目上、ミニマムにして、日米安保条約に依存しながら経済のほうに力を入れてきた。

それが、時代が変わって、経済一辺倒ではなくなったと言われて久しいだけれども、でも経済の重要性がなくなるわけではない。さっきの一家の家計の話で。「そんなに貯金しなくても大丈夫だから、もっとのんびり暮らそうよ」とか、「もっとゆっくりしようよ」と言っても、稼がないでいいというわけじゃない。プライオリティはシフトしているけど、経済成長の重要性はなくなっていない。

──今、軍事から経済、経済からシフトしていく時期だとすると、どんなものにシフトしていくんでしょうね。

いろいろ言われるけど、ここは日本でわれわれは日本人なので、日本という観点で言うと、どれだけ経済プラスアルファの国際貢献、平和への貢献を日本ができるかだと思います。

3年前にスリランカに行った時、「日本から来た」と言うと、ものすごく温かかった。あれは、ODAとか、日本が多大な援助をした。でもそれはお金だけではなくて、お金と一緒に行った人たちが、お金、技術、人材、ほんとによくしてくれたと。それは、日本がODA、経済援助という形を借りてずっとやってきたことで、それは誇りに思っていいし、そういうことができたことの背景には経済の力があった。

だから、それは続けていくんだけれども、日本が経済力を失うことなく、シンボリックな貢献ができるという分野もあると思います。それは全然新しいことではなくて、すでにやっている。漫画とかアニメとか、クールジャパンとか言って。

何十年か前は、漫画に対しては「有害図書、撲滅しろ」のような運動があり、アニメなども、低く見られていた。ところが、実は平和のメッセージを世界中に送っているわけです。すごくシンボリックなインパクトが。

だって、名前思い出せないけど、ヨーロッパのサッカー選手が、サッカーを始めたきっかけは『キャプテン翼』。サッカーって日本はずっと後進国で、ようやくワールドカップにちょっと出られるようになったと思っているんだけど、漫画の世界では向こうを啓蒙するくらい。

『キャプテン翼』は世界的にポピュラーになった漫画だけど、ほかにもいろんな漫画、もちろん漫画だけでなくて、村上春樹の小説だって、それなりの普遍性がある。個人的にはあまり好きじゃないけど。小説とか文学もあるけど、明らかに目立つのは漫画とか、オタク文化みたいなものが、平和の使者の役割をしている。

文化のパワーとかスマートパワーとかと経済パワーを分けるのではなくて、お金もあって、ああいう遊び、一見役に立たないようなものがある。

昨日、多摩川の花火大会で、生まれて初めてすごい花火を見たんです。あれも、考えてみれば何の役にも立たないわけでしょう、暮らしのためには。一発何十万だか、一晩何千万だかわからない、大金を使って火薬を燃やしている。でも、あれが精神に与えるインパクトはすごく大きい。大人でも大きいし、自分はちょっと子どもみたいな大人だけど、甥っ子の小6のリョウマを連れて行ったんだけど、すごいインパクトがあるんですね。

花火大会はローカルだけど、それがネットの世界で、いろんなメディアを。ソフトパワー、スマートパワーというのは、オタク文化みたいなものが代表選手。もちろん、オタク文化とか漫画、アニメに限るわけではなく、人の交流とか。

たとえば、アツオとチカちゃんと、先週まで、ニューメキシコのAlexander techniqueのトレーニングのリトリートに行っていたけど、あれに行けるのも、日本に経済力があるからです。

Q. 経済成長を続けることは可能ですか、それはなぜですか。

その質問は、経済成長の定義のところからちょっと違っていて、続けることは可能ですかというより、人類が滅亡の道を行かない限り、それしかない。成長していくしかない。

ただ、チョイスが全然ないかと言うと、自分の首を絞めるような、不自然な経済成長を志向するのは良くない。そうではなくて、本来の、人類にとって必要な経済成長を図っていくことが大切です。

これは難しい問題で、誰もファイナルアンサーを持っていないと思う。この5年くらい注目しているのがいくつかあって。1つは仏教経済学。Applied Buddhism、応用仏教。

あれもまだ発展途上で、そもそも仏教は経済成長みたいなものを全然重視していないので、物質を重視していないから、仏教は、人類が滅亡する道の方法なんですね。滅亡というか、死んでもいいわけですよね。心が解脱すれば。

Applied Buddhismは、折中案と言うと言い過ぎかもしれないけど、仏教的な考え方を、出家していないわれわれの社会に当てはめて、もっと健全なバランスを志向していくことができるんじゃないかという試みです。

もうひとつは、チカちゃん大好きなユヌス先生のソーシャルビジネス。ソーシャルビジネスと従来のチャリティとかフィランソロピーとの大きな違いは、サステナブルであるということです。

従来、チャリティ、フィランソロピーは、お金持ちが寄付してくれて、それを運用していいことをしましょうというものです。ソーシャルビジネスは、資本があって株主がいても、それを減らすことなく、永久に自動運転できるようなビジネスをデザインして使いましょう、それによって社会問題を解決していきましょうというものです。その違いが重要です。

金融資本主義で、株主利益の最大化が企業経営者の義務だという、あれが間違いだった。ミルトン・フリードマンですね。

二十何年前に初めて読んだ時は、論理的で正しいと思ったんです。契約があって、お金のやりとりがあって、ただし、株主以外のことにも注意を払うのが健全な経営、という考え方ですね。

そういう線引きをすると、結局株主以外のことはそれなりに。従業員が死なない程度に使い、コミュニティはケチつけられない程度にケアし、環境は、法律に触れなければいいや、みたいになっていく。だからそれは、出発点から間違っていたんです。パラダイムが違う。

Q. 日本も世界も経済成長を続けてきた。どういう定義があるかでいろいろだけど、少なくてもGDPは増え続けるという意味では経済成長続けてきているわけですが、経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか。あるとしたら、どんなものでしょう。

それはやはり最初の定義が違っていて、経済成長を続けることによる犠牲ではなく、誤った経済成長を志向したことによる歪みです。経済成長が悪なのではなく、GDPの数字だとか、企業のROEだとか、本来結果の評価でしかないものを目標値にしてしまったことが、一番大きい。

──それがいろんな犠牲を生み出してきている。

受験勉強のたとえで言うと、本来学問を学ぶことの喜びがあって、学ぶことによって成長して賢くなって、人の役に立つようになって、ということのために初等教育、高等教育をやっているはずなのに、それをテストのスコアで、偏差値で測るということを始めて、偏差値を上げるには、というふうにシフトした途端に全部ゆがんでしまって、何の意味もない。

何の意味もなくはないかもしれない。多少意味はあるかもしれない。忍耐力とか暗記力とか。でも、本来の学問とか学ぶとか育つとかいうことからかけ離れたものになっている。

ちょうど同じことが、経済成長をGDPの経済指標によって測るという間違いによって起こっているのです。

──その間違いによって、具体的にどんな犠牲とか問題が生じているんでしょう。

数えきれない犠牲が生じていると思います。日本にいて日本の問題で言うと、派遣労働者問題などもそうですね。でも、日本はまだマシなほう。アメリカのほうがもっとひどい。

去年、ビジネススクール卒業20周年でバージニア大学に行った時、クラスメートたちは本当に優秀で、成功して、豊かにやっていて素晴らしいなと思う一方で、アメリカのワーキングプアの人たちは本当に貧困層に落ちているんですね。二極化しているんです。

アメリカの成功重視のカルチャーで言うと、いい学校に行って、勉強して、いい会社に行って、成功している人たち。これはアメリカンドリームを体現しているんだから、貧困層の人たちは自己責任だと言うんだけど、それは、成功一本槍思考の一番悪いところが出ている。数字で成功を測る。アメリカの富裕層の間で、自分はネットワースが何ビリオンだとか。人間の価値とまったく関係ないですから。

お金をたくさん持っていて、それでいいことをしているとか、いいことをしてお金をたくさん持っているとか。いいこと、人の役に立つとか、町を良くするとか、生き物を大切にするとか、そっちのほうが本質なのに、結局、測りやすいお金で測ってしまう。

それですね。経済成長でなくて、お金で測るということ。経済成長の成長だから、お金で測るのは自然だけど、それがだんだん歪んできて、ある部分は最初のボタンの掛け違いというか、定義の間違い。ある部分は、それほどでもなかったのが、グローバル金融資本主義になってから、ものすごく加速している。

陰謀説というのがあって、ロスチャイルドとロックフェラーの陰謀だという説があって、すごく信ぴょう性があって興味深いけど、その話をする前に、モノサシ問題のほうが大きい。

──具体的に、犠牲ということで、日本が高度経済成長して、その後も経済成長を追求して、今、国を回しているわけですが、それで起こってきた問題とか犠牲とか。

中小零細の、本当に真面目で正直で、いい仕事をしてきた会社をつぶしてきたことが大きいですかね。お金の力の前には、よくわからない買収などで、結構いい会社をつぶしてきたと思います。もちろん、つぶれていない会社もたくさん残っていますけど。

これは個人的に結論が出ていないけど、原発の問題という、抜き差しならない状況をつくり出したのは、直線的な思考で、日本はエネルギー小国というか、エネルギーを自給できない国だ、原子力でやるしかないんだと決めてきたわけですね。

いいこともあったと思うんだけど、まさに体系的廃棄って、午前中やっていたんだけれども、今、ネタが割れている段階で、「原子力を増やしますか?」と言ったら、誰一人増やす人はいないですね。ましてはシェールガスとかメタンハイドレートとか出てきている状況で、「原子力」と言う人はいない。

じゃあ、「やめますか?」と言ったとき、やめることのコスト、廃棄コストが大変。「それを何十年前に予見できましたか?」と言うと、予見はできなかった。

過去の政策が間違いだったということは、必ずしも言えない。言えないけれども、抜き差しならない状況をつくってしまったというのを犠牲の1つと数えるのであれば、そういうことだと思います。

Q. 「経済成長」と私たちが求めている「持続可能で幸せな社会」の関係をどういうふうに位置づけますか?

経済成長は必要で、よく「必要悪」と言う人がいるけど、悪ではなくて必要。ただし、何のために必要なのか。その内実がどのように成り立っているのか。ものづくりで成り立っているのか、土地転がし、金転がしで成り立っているのか、全然質が違う。中身を見ないといけない。

中身を見る方法を、一部の先駆者たちは模索して、未発達ながらも共有化したりして、体系化したりしているわけです。そこが今、先端分野じゃないですか。ソーシャルビジネスなんて、割とシンプルなコンセプトで、本を読めば中学生でもわかるような。

でも実践するとなると、今までのパラダイムと違うので。まず1つは、全然理解されないということです。

おととし、たまたまチカちゃんと六本木のハリウッドビューティプラザに行って、そこでユヌス先生とばったり会ったんです。

和民さん、ユヌス先生の本を、1ページも読んでいないのかなというくらい、たぶん読んでいるんですけど、読んでも理解できない。ソーシャルビジネスはどういうことか、素直に読めば中学生でも理解できるようなことです。

原則がいくつかあって、もうけ主義じゃないけど、損していったら終わってしまうので、ちゃんとトントンになるようにして、社会問題を解決していきましょうと。それを楽しんで、喜びを持ってやりましょう。

すごくシンプルなことなのに、居酒屋の社長、まったくわかっていなくて。「商売はすべてソーシャルビジネスだ」とか言っているわけです。1ページもわかっていない。

でもそれは、和民さんが特別頭が悪いのではなくて、社会の主流のパラダイムから異端なので、いくらユヌス先生がノーベル賞を取ろうが、世間は理解しようとしないんですね。それが最大の最初のハードルです。

「100匹の猿」じゃないですけど、ある臨界点でゴロンと変わるかもしれない。でも当分変わらないですね。

当分変わらない中で、希望を失わずに、自分たちの周りだけの、たとえばSTARクラブって、実はソーシャルビジネス。でも、別に、社会問題を解決するぞと高尚なことをやっているわけではなくて、小規模でできることをやっている。

幸せな社会って何だろう。貧しいころは、ご飯がおなかいっぱい食べられれば幸せだったんですね。もう日本はすっかり豊かで、日本にも貧困層はあるけれども、うちの実家とか相当貧困だけれども、でも豊かなんですね。そういう豊かさ、下手をすれば退屈してしまうような社会における幸せは、すごく難しい話ですね。

極端な話、もっと貧乏になれば、ご飯のおいしさがよりありがたく感じられるはずです。そういう意味では、最初に言ったこととは違うけど、一種の軽いショック療法として、経済がマイナス成長して、みんなひもじさを思い出すというのは、アイデアとしては悪くないかもしれない。

ただ現実には、それが起こったとき、苦しむのは最末端の貧困層の人たちで、富裕層とか、痛くもかゆくもないわけです。

だから、今の頭の体操で、幸せということを、自分の家族がおいしいものを食べられるということではなくて、ましてやお金のネットワースとか全然関係なくて、せっかくインターネットで、あるいはテレビやメディアで世界を感じられるような世紀になってきているんだから、縁の薄い人たちの幸せのことを考えてみる。それが普通になるということだといいと思います。

そういう自分の周りのことを考えるだけでなくて、同時に、パキスタンのこととかイスラエルのこととかも考えられるという時代に来ているわけです。そういうふうに考えていくことかな。まず自分の周りだけど、世界のことを、豊かな人たちは特に、少しずつでも考えていくという。

でも、それが行きすぎることがあって、観念で地球の裏側のことを考えると、自分ができることは自分の身の回りのことだと思います。

お金ってすごく便利で、中間搾取もあるかもしれないけど、地球の裏側にお金を送ることは、ある程度可能ですよね。そういうことをやるのもいいけれど、まず自分の身の回り、自分の仕事、生活から平和にしていくということかなと思います。

──今は、GDPで測るような経済成長至上主義みたいなところがあって、それがいろんな問題、犠牲を伴っていて、だけど正しい経済成長は必要だし、それは幸せのためにもなる。GDPだけじゃないでしょうとか、経済以外にも大事なことがあるでしょうと、中学生にもわかることだと思うんだけど、和民の社長だけではなくて、主流派の人たちは全然それがわかっていないように見えます。かなり頭のいい人たちもいるのに、なぜわからないんでしょう。わかっていて、自分のアイデンティティを否定されるから、見ない振りをしているのか、本当にわかっていないのか。

もちろん、わかっていて、自分のエゴで見ぬ振りをしている人たちも一定数いると思います。でも、大半の人はわからないんだと思います。わかろうというニーズがない。

Perspective shiftという話をしていたんですけど。自分はこれをこうだと思っている。自分の視点、perspective に自覚を持っている人は、それは個人的なものであって、相対的なものであると、そうでない考え方があるとシフトできるんですね。

でも普通は、自分のperspectiveに自覚を持っていないんです。これはこうだと、事実だと思っているから、あそこで和民さんに、「128ページを見てください。ここにこう書いてある。あなたの言っていること違いますよ」と言っても拒絶するんですね。拒絶というのは悪意じゃなくて、何言っているんだと、自分が正しい、というところからスタートしているから、決して、頭がいい、悪いって、さっきの学校のテストで点数が取れますと、そういうレベルの頭がいい、悪いじゃなくて、頭というよりは心。マインドですね。

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チカさん たとえば私の場合もそうで、「チカちゃん、こういうところ、直したほうがいいよ」と、言われるとするじゃないですか。そういうこと、誰も言ってくれないと思っていて、それはなぜかと言うと、私がそれを受け入れる準備がないと思っていて、多分、それを言っても私には入らないとわかっているから言われないんだろうなと思うんですけれども、そういうことって、結構いっぱいあるだろうなと、よく思います。

私の耳の痛いことを、わざわざ勇気を持って言って、私が反駁したりして、何もいいことにならないから、拒絶するというのは、頭の中が受け入れられないんだろうなと。心もそうだけど。自分が正しいというものに対して。

枝廣 そうですね。でも、基本的なところで、経済は何が成長することだろうとか、お金とかGDPで測るだけでは足りないとか、ゆがんでいるよねということを認識することって、すごく大事だと思っているんですけど。今言ったような、自分が正しいと信じていると、perspective shiftができない。そういうのが世の中の大半の人だとすると、どうやって変えていくことができるんでしょう。

田村 個人的な見方で言うと、変えていくことはほとんどできないと思います。ただし、まったくできないわけじゃなくて、自分がそれをやることで、見える人には見える、わかる人にはわかる。わかる人、見える人が、その人たちも変わっていけば。

チカさん ガンジーですね。

田村 ガンジーですね。自分が啓蒙しようというよりは、これがいいんだと思ったら、それを自分が体現する。そうすると、自分の身近な人の中で心ある人はそれがわかり、それが見え、その人も体現する。

だから、「101匹目の猿」というのは、科学的にはガセネタみたいだったみたいで、あまりメタファーとして使い続けるのも良くないのかもしれないけど、少しずつ変わっていくということかな。

チカさん 時間がかかるんですね。

田村 そう。自分が生きている間に、それがどのくらい変わるかというのは、正直言ってわからない。

ただ、希望が持てないというわけじゃなくて、人類の歴史はそういうものなのかな。自分が生きている間に変わるかどうかわからないけど、自分の身の回りが変わっていけば、それでよしとするという。

ただ一方で、それでは遅いんだという説の人たちの話も聞きますけど。今、変化のスピードが速すぎるので。

枝廣 時間との闘いとかね。データ的にも。たとえば、今の和民の社長まで届くかわからないけど、現世代を変えていくには、言ったってわからない人たちなので、そうやって変化の連鎖がいつか届くことを願って、変化の連鎖をつくり続けることだと思うけど。

たとえば、さっきのperspective shiftができるようになるには、田村さんがやっていらっしゃるようなディベート。ディベートは、自分の考え方や見方を客観視、もしくは相対化することですよね。すごく平たい言い方をすると、小学校からああいうことができるようにトレーニングすると、30年後には大人たちもそういう見方ができる人が主流になっているかもしれない?

田村 そうですね。教育の力はあなどれないですね。

チカさん ただ、ディベートも、いろんなディベートが、いろんな種類の人たちがいて、ちょっと方向がずれると全然違うことになったり。

田村 京大の滝本君とか。『君たちに武器を配りたい』と。

チカさん 友だちいなくてもいい、という本ですね、あれは。

田村 あれも、すごくレベルの低いと言うと失礼だけど、了見の狭い。

ディベートと言えば、ディベート道場でやっているようなディベートというよりは、もっと格好いい、強い、みたいな、ああ言えばこう言う、みたいな、そういう感じのほうが外面がいい。世間受けがいい。

枝廣 世間のイメージもね。期待値もそうだし。田村さんがやっていらっしゃる、教えてくださっていることは、たぶん本当のディベートだと思うけど、世間のディベートのイメージは違うし、ディベートをやっている人も違うイメージの人が多いから。本当は、田村さんがやろうとしていることは、ディベートという名前じゃなくやったほうがいいのかもしれない。

田村 なるほど。

枝廣 道場へ来ている人たちとか、みんなそれはわかっているからあれだけど、ディベートと言った瞬間に、みんなのメンタルモデルが出てきちゃうから。

Aさん 確かに、外で話す時に、話がかみ合わないというのはあるかもしれないですね。理解してもらうまでに説明が長くなるので。

田村 ディベートはディベートなんだけどね、同じディベートで、ただ、考え方、やり方が、少し違うだけ。

枝廣 目的が違うのかな。

Aさん ほかを知らないで、これがディベートだと思って話していると、何でこんなにかみ合わないんだろうとなる。

田村 たとえば、合気道とかって、今、21世紀の合気道はものすごく平和的な、エクササイズになっていて、でも、あれはもともと非常に破壊的な武術ですよね。非常に効率的、効果的に相手を戦闘不能にする技術ですね。

チカさん ただ、ディベートも、喜己ちゃんがすごく教えるのが上手で、今回、2014年のディベート道場の、名古屋から来ている志帆さんの所に教えに行ったり、そういう、時間はかかるけれども、私たちが、これがディベートだと思っているのは、少し広がっていっている感じはあるのかなと思います。

枝廣 さっき、STARクラブもソーシャルビジネスというお話でしたが、ディベートとか、いろんなことを教えたり、セミナーをやったりすることで、田村さんの最終的な究極の目標、目的は?

田村 これは、やっていることでもないし、やろうともしていないんだけれど、究極の目的というか、活動をもっと、ディセミネーションとかマーケティングという観点で考えると、もっと大きな乗り物に乗せてやったほうがいいんじゃないかと思うことはあります。

応用仏教、Applied Buddhismなんていうのは、まさにそれで、仏教というのはある程度知られているけど。理解されている、実践されているは別として、世界3大宗教の1つですね。それを、日本で言えば、抹香臭い宗教、葬式仏教ではなくて、社会・経済・事業に当てはまる新しい考え方というふうにする。そういうのでいいんじゃないかなと思います。

だから、ディベート道場でやっているのは、どうやら世間のディベートのイメージと違うから、別の名前で、新しい宗旨、新しい看板でやろうというよりは、日本ではちょっと悪名高い部分があるけど、ディベートってある程度、

枝廣 確かに知られていますね。

田村 共有されている、アリストテレス以来の人類の財産です。その一郭を借りて、別に、まったく新しいノベルなことをやっているわけではなくて、古今東西の伝統の片隅に乗って、自分たちができることを見つけてやろうという。

だから、また前言を翻すみたいですけれども、京大の瀧本君が「武器を配りたい」とか言っているのは、あれはあれでいいのかなと思ったりします。やっていることは、かなり違いますね。もうちょっと了見が広いといいかなと思いますけど。

要するに、自分のサバイバルとか、自分の成功とか、それはもちろん大事なんだけど、でも、ある程度の年齢で、ある程度の力を持ってきたら、自分の仕事は自分のためだけのものじゃないですよね。それを10代、20代の若者が、「自分は一旗揚げるぞ」と言って、武器を手に入れる、自分を磨くというのと、豊かな日本で豊かな暮らしをしている人たちが、もっと広く社会のことを思ってというのは違うと思うんです。

チカさん ただ、経済的には豊かな人は多いかもしれないけど。

田村 心は貧しい。

チカさん 心はそんなに豊かじゃないと思います。毎晩いっぱいお酒飲んで発散するという、お金をいっぱい持っている人ほど、そういうことをやっている人は多いし。だから、心が充実しているのは、ほんとにありがたいことだなと思うし。

田村 そういう意味で枝廣さんの質問に答えると、究極の目標は、これはかなえられると思っていないんだけれど、みんなが、心が自由になることですね。

枝廣 心が自由になること。

田村 つくづく、会社員とかサラリーマンとかって、不自由だと思っているんです、自分の直接体験から。でも組織の中にいても、自由な人ってチラホラいるんですね。それはやはり心のありようです。

一方で、会社を辞めて脱サラして、独立して、形上は自由にしていても、クライアントの奴隷みたいな働き方をしている人たちも、残念ながらチラホラいるんですね。

だから、どういう環境で仕事をするか、生活をするかによって、その人の自由度が変わるんだけど、究極的には心の自由かな。強制収容所に収容されていても、心が自由であれば絶望しないという。自分がそこにいて、それができるという自信がある人はいないと思うけれども。でも、究極はそれですね。

枝廣 確かに。そう思うと、今日食べる物のお金を稼ぐために必死に働いて、そんな余裕がない人と同様、すごくお金があってお金持ちだけど、お金のことばかり考えている人も、同じように心が不自由なんでしょうね。

田村 お金の奴隷の人たちは、お金がない人以上に不自由だと思います。お金のために働いているので。だって、お金なんて、ある程度以上あってもしょうがないんだから。お金を権力に変えて別のものを満たそうとしているけど、それは仏教的に言えば、決して満たされることのない渇望ですね。お金がないのは困るんだけど、ある程度あったらそれ以上必要ないんです。

チカさん でも、そのことを本当に心底、そうだなと思う人って、意外と少ないような気がします。

田村 日本でも少ないし、世界中でも少ないかもしれない。

枝廣 なぜでしょうね。

田村 お金には魔力があるから。

チカさん なぜでしょうね。

枝廣 この間、別の人のインタビューで、やっぱりお金の話になって。お金の影響を受ける、つまりお金に支配されるのは人間だけだと。犬とか猫とか、別にお金の影響を受けないでしょう。なので、実際のものというより、人間が自分の脳の中につくり出したイメージに自分が縛られているという話をしていて、なるほどなと思って聞いていたんですけど。

だけど、それに縛られない人もいるとしたら、それは人間の普遍的な性質ではなくて、何らかの持って生まれたものなのか、後天的なものなのか。そこから自由になる方法はきっとあるんだろうなと思うし。少しずつ、ダウンシフターズ、降りていく生き方じゃないけど、増やすことを目的にしない人たちも増えてはいるけど。

だけど、こういうインタビューを、ごく普通のサラリーマンとかにすると、「やっぱり給料は増えてほしい」とか。今、十分にもらっていると思うんだけど。それが、エゴとか、競争心とか、アイデンティティとか、別のものにつながっていっているのか、本当にお金があったほうがいいと思っているのか、わからないけど。

田村 シンボリックな意味や、精神的、心理的な意味ですね。実質的な意味は失って。「お金はいくらでも、あればあっただけいい」と、割と、こういう領域のことを学んでいる人が、そういうことを言っていて、何言っていると思ったんだけど、でも、その人が特殊なんじゃなくて、それが主流の考え方。

枝廣 きっと主流ですね。

チカさん それ、少し古いような感じが。私たちのこのコミュニティには、そんな20世紀の話をしているんだなというふうに聞こえるんだけど。でも、普通のサラリーマンというか、私が所属しているような職場の人たちに話すと、何か浮世離れてしているという。

田村 むしろわれわれのほうが浮世離れして。

枝廣 かなり変わっている人たちです。

田村 理解されない。

枝廣 仙人のような。

田村 お金は、足りない時はあればあったほうがいいんだけど、足りてからはあまり変わらなくなって。分相応というのがあって、分を超えてお金が入り始めると、かえって悪くなるというのがありますね。
 宝くじに当たった人が身の破滅というのは、分不相応なお金を手にしてしまう。人間は、自分の分というものを考えたほうがいい。

枝廣 「分相応」と言う時の「分」って、英語だと何と言います? 私、時々困る。仏教用語ですかね。

田村 「分」とか「分際」というのは儒教用語ですね。通訳だったらdeserveと訳すけど、翻訳は難しいですね。

枝廣 難しいですね。そういう感覚って。

田村 通訳だったら、そのコンテクストで。entitlementとも違うし。でも、文脈によってはそれになるかもしれないし。

分際というのは儒教的な発想で、士大夫から始まって、いろんな身分の人たちがいます。社会にはいろんなランクの人たちがいます。このランクの人たちは、こういう分があるので、というものですね。分際。

枝廣 同じ「分」を使って、「分福」という字があって、分相応の福。自分にふさわしい。「足るを知る」に近い考え方だと思うんですけど。それが仏教的か儒教的かは別として、忘れている人が多いけど、日本とか東洋は結構共有されている気がしていて。

だけど、たとえばアメリカとかでもそういう、自分は生まれながらにして、これぐらいのフォーチュンがあればいいんだとか。

田村 わかった。その場合はもっと実利的に考えて、私だったらcapacityと訳しますね。その人のcapacity。たとえば、アンディだったら、1億円の宝くじが当たっても、それを十分に自分のため、自分の家族のため、社会のために活かせるcapacityがありますと。それは分にふさわしい。

でも、capacityを持っていない人がそれを受け取ると、それによっていろんなマイナスの影響を受けてしまって、incapacityですね。

だから、お金を持つとか使うとかいうことにも、capabilityやcapacityが必要なんだという。器が必要なんだと。

お金って、預金通帳の数字みたいなもので、それこそいくらあってもいいと思っているけど、それが間違い。むしろスピリチュアルな入れ物が大事で。自分にはこのくらいというのを知っておかないといけないんじゃないかなと。

枝廣 ありがとうございました。


インタビューを終えて

ディベート道場の先生でもある田村さんにお話をうかがいました。
「生命の原則は、改善して成長していくか、衰退していくかしかない」ので、「経済成長は必要で、よく「必要悪」と言う人がいるけど、悪ではなくて必要」。ただし、「GDPで測ると、金の動き、モノの動きで操作可能」であって、「結果でしかないものを目標のモノサシにしてしまうというのが、政策上の間違い」で、「一般の人たちの暮らしを豊かにする本当の成長を測るモノサシを今、われわれは失っている」という、モノサシの問題を繰り返し指摘されました。
原稿をまとめながら、田村さんのおっしゃる「生命の原則は、改善して成長していくか、衰退していくかしかない」→「経済成長は必要」というところのつながりが、私にはまだよく理解できていないなあと思いました。
経済成長を続けることの犠牲についての質問にも「経済成長を続けることによる犠牲ではなく、誤った経済成長を志向したことによる歪み」との答えでした。「誤っていない経済成長」とはどのようなものなのか、ファイナルアンサーはないということだと思いますが、何を手がかりに考えていけばよいのだろうか?と思います。
「経済成長はマキシマムにするものではない。最大化するものではなくて、オプティマイズするものです」というのもそのとおりだろうと思いつつ、最適な経済成長とはどのようなものなのだろう?と思います(この経済成長のインタビューは、答えをいただくたびに問いが増えていく......という気がします)。
言及されていた「Applied Buddhism」がひとつのヒントなのかもしれないと思いました。学んでみたいと思います。

取材日:2015年2月17日


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