100人それぞれの「答え」

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関西大学 社会学部 教授

草郷 孝好(くさごう たかよし)さん

「国の目線だけで考える経済成長」の時代は、すでに終わりを迎えている。一人ひとりが自分がよしとするような生活を目指していくために、最低限必要な経済基盤を保障する経済成長であるのかどうかを議論すべきです

Q. 経済成長とはどういうことでしょうか

経済成長は、教科書的に言うと、マクロ経済が扱う国家や地域など社会全体の経済力を強化するという意味合いで使われているものがほとんどで、「国家や地域の経済力そのものが底上げされていくこと」だと思います。

Q. 今おっしゃった「経済力」とは何でしょうか?

経済力は、経済システムによって変わってくるもの。資本主義経済システムの場合、資本主義が導入されたら、それがどこまで人々の生活の中に浸透していくのかを見ていくでしょう。浸透しはじめたなら、その資本主義がどれだけその国の人々の生活を支えるようになるのか。経済生活がどこまで資本主義システムによって担われるようになるのか。これらが重要になってくるわけです。

これらの度合いは経済規模の大きさで測ることができるので、GNPやGDPが重宝されてきたのだろうと思いますね。GNPによって、資本主義経済システムがどこまで浸透し、強化されるのか、に着目しているわけで、「GNPが成長している」ということは、つまり、その社会で生活している人たちの生活が、平均して、経済的な意味で、改善していることを暗に示しているわけです。これが資本主義の経済力といえるでしょう。

最初に「教科書的に」という言い方をしたのは、僕は、違う意味での経済成長があると思っていて、それと区別したいからなんです。経済学部の学生が勉強する「マクロ経済の教科書的な意味合いでの経済成長」とは違う意味で、「経済成長」という言葉を考えてみる必要があるということなんです。

「社会全体が経済的に豊かになる」と言うだけだと、「その社会で生活している一人ひとりの生活の基盤を少しでも良くするような経済成長」であるのかどうか、この点が担保できてないわけです。

なぜそうなるのかと言うと、結局、その目線が国家や地域レベルにあるから。日本の近代化を始めた当時の"主体"は誰かと言えば、それは国なんですよ。「富国強兵」にもつながっているわけです。この富国強兵政策の根っこには、もともと宗主国として植民地体制を築き上げてきた「西欧列強」に近づこうという発想に近いものでしょう。「富国」を達成するために経済成長をするわけですから、「何のレベルの?どの単位の?」と問えば「国です」という答えになってしまうわけです。

でも、それだけでは十分じゃないというのが僕の考え。「国の目線だけで考える経済成長」という時代は、すでに終わりを迎えていて、もっと基本に立ち戻るというか、生活をしている一人ひとりが、自分がよしとするような生活を目指していくために、最低限必要な経済基盤を保障する経済成長であるのかどうか、という議論こそ必要と思うんですよね。

僕は、開発経済学から出発し、今は、広く開発学全般の研究と講義をしています。この講義は、「経済成長アプローチ」から入るけれど、それが「社会開発アプローチ」や「人間開発アプローチ」へと移行していく過程、アプローチ間の修正過程を学生に伝えようという流れになっています。

「経済成長アプローチ」は必要なものであり、それをしなければいけない時代があった。でも、経済成長だけを追求していくと、結果的に、経済格差が広がったり、貧困問題が生まれていった。

では、生まれた格差や貧困にどう対応するのか?そこで、生活をより豊かにするために最低限必要な人間の基本的な生活の充足を考えるという「ベーシック・ヒューマン・ニーズ・アプローチ」が70年代に登場します。でも、これって、実は経済成長アプローチの補完修正にすぎなかったのです。

次に起きたのは、経済成長そのものを否定した上で、社会の発展を考えないといけないという考え方の登場です。生活保護や社会福祉の実務家が、Social Development、社会開発という言葉を使い始めたのです。

面白いのは、同じような時期に、開発学の専門家も、「社会開発」という言葉を使い始めたことです。その意味は複数あって、1つは、新自由主義的な見方で、功利主義で効率を求める競争主義はOK、ただ、そこでうまくいかなった人たちをどうお金の面でサポートするか、という考えなんですよね。

次の考え方は、先の社会福祉の考えに近いもので、功利主義に基づく競争こそが、実は、世界の格差問題を引き起こしている。だから、格差を改善するには、経済システムそのものを変えるか、それに対抗する形で、弱者保護をもっともっと強化しなければいけないというもの。そのための「社会開発」なのだと。

あと、経済成長は必要だけれども、その経済的パイを、教育や医療の整備などに振り向け、社会開発を進展させようという考えもある。これがさきほどのベーシック・ヒューマン・ニーズ・アプローチなのです。

さらに、もう1つの考え方が出てきます。「社会はどうあるべきか」というところから出発した上で、経済力も強化しなくてはいけない、社会はどうあるべきか、人はどういう暮らしが必要なのかを考えていこう―これが、僕の専門とする「人間開発」(Human Development)への考え方に舵を切り始めるターニングポイントとなる社会開発の考え方で、その登場は、70年代後半のことでした。

「人間開発」の考えでは、その提唱者のアマルティア・センが言うように、人の生活を外部、たとえば国家が、国民生活をより良くより豊かなものにできるように努力すると言っても、国民を必ず豊かにできるわけではない、というんです。

「国の立場だけで物事を見ていたらダメ。人の視点から物事をきちんと押さえていきなさい」というのが、センの出しているメッセージの1つ。一人ひとりの目線で豊かさを考えていくことがとても大切であって、それが「人間開発」という言葉の中に凝縮されている。大事なのは、既存の見方や軸を変えることなんだ、と。

たとえば、生産拡大を評価するなら、どの目線からそれが必要と考えるのか。国の目線と人の目線では、どのような生産が必要かその中身が変わってくる。常に、国か人のどちらの視点が必要とされるべきか、社会の中で求められるべきものは何なのか、という問いかけをして、考えていくことが大切なんです。

センは、学際的な思考を持つ経済学者なので、他の経済学者とは違う視点で何が大切かを突き詰めていくことができる人なのだろうと思っています。僕には、人を重視するセンの視点のほうが腑に落ちた。途上国の現場に足を運ぶ仕事をしていて、現場で気づいたことがたくさんあったからでしょうね。

その1つが、人はお金だけで暮らしのことを考えているわけではない、ということです。貧しいと言われる地域に行ってみると、みんなすごくみすぼらしくて、悲しい目をして、絶望感にあふれて生きているかというと、そんなこともないんです。むしろそうでない場合の方が多い。

生活の現場に足を運ぶと、「経済成長が大事だ」「経済開発をすべきだ」という言葉の持つ意味やそれが地域に与える影響ははたして何だろう?と思うことが幾度となくありました。これはどういうことなのだろうか、と。

生き生きとした社会を目指すといっても、「豊かな生活はこういうもの」というイメージをつくり、型にはめようとしてしまう。特に、経済理論を使って、この型の開発がどの地域でも有効なんだ、と。でも、僕は、こういうスタイルの国際協力や国際支援は正しくないんじゃないかと、現場にいて、ひしひしと感じるようになったわけです。

それだけに、センの「潜在的な能力アプローチ」の理論や人間開発の考え方は、完ぺきとは言わないまでも、新しい方向性を打ち出していて、ものすごい力をもらえた。ぜひ自分の研究の中に活かし、実践の現場でも、それを応用する機会があれば、そういう方向を目指そう、と考えた。僕自身、自分の考え方や生き方を少しずつ変えてきたなと思いますね。

経済成長なるものは、どの目線から見たらどう見えるのか、どの目線から見たらその妥当性はどこまであるのか、どの目線から見たら何が失われたといえるのか、という「目線の違い」に、ずっと関心を持ち続けてきたんでしょう。

つまり、国全体を見るのか、人々を平均的に見るのか、多様な人々という考え方に立つのか、によって、成長の持つ意味が違ってくる。僕には、「多様な人々」のほうが、社会全体もより輝きを増すというか、生き生き感がある社会に思える。経済的には弱いけれど、そのほかの面では非常に豊かだという地域を見たり、訪れたり、実際にそういう場にかかわることができたからこそ、こう言えるのだと思います。

Q. 経済成長は必要なものですか、それはなぜですか

経済成長そのものを否定しているわけではありません。だけど、それが必要と言うなら、今、人々の生活目線に立って、どんな生活を目指していて、何が不足しているのかをきちんと把握しておかなくてはいけない。それから、もちろん、世界の人口問題と環境問題もありますしね。

生活に必要とされる経済的な支えとは何か。人間一人ひとりが生活をしていくという意味を精査する努力をしていかないと、と思います。そういう精査については、学者や研究者が力を発揮できるはずです。

Q. 教科書的に言っている経済成長は望ましいか、必要か。草郷さん的な見方の、多様な人間一人ひとりを見るとき、経済成長は望ましいか、必要か。必要だったら、いつまでどこまで必要でしょうか

もし、残念なことに、すべての人が、自分の豊かさは結局経済力に収れんされる、と考えるなら、そういう価値観に対しての歯止めになるものは、有限な資源を持っている地球環境に求めるしかないだろうと思っています。

突き詰めていくと、今の経済成長の基盤にある資本主義型の経済システムを変えるということにつながるんじゃないかな。そのシステムを変えないで、仮に多くの人たちが「経済力こそが自分の生活や豊かさの源なので、それだけあればいいよ」と言いだしたなら、「みんなが大事というんだから、まずは、それをしっかりと応援していきましょう」ということになりかねない。でも、それではまったくもっておかしな話でしょう。

センの人間開発の考え方の欠点ですけど、「環境」との関係性が弱いんです。僕は、人間開発を目指すけど、ちゃんと環境とも共存できるということが大事だと思っていますし、経済成長の歯止めもやはり環境制約ですよね。

Q. そのときの「経済力」とは、「どれだけお金を稼げるか」とイコールと考えていいですか?

むしろ、「なぜお金を稼ぐのか」という点に注目することが重要と思っています。

ブータンやインドネシアなど、世界のいろいろな国の地方に行くたびに感動するのは、貧しい人々はお金がない、そして、お金に困っている。でも使うんですよ、お金を。何に使っているかと言うと、地域のつきあいのためです。村の人が結婚するからお祝い。隣人が残念なことに亡くなったら、弔わなきゃいけない。「お金ない」と言っているんですけど、使うときは湯水のようにお金を使うんです。ここにお金を稼ぐ意味を考えるヒントがあると思っています。

自分にとっての豊かさは、おそらく、生活する地域ごとに違っていて、地域ごとの豊かさを維持するためにはお金が要る。なけなしでもお金があれば使って当然じゃないか、ということだろうと思うんです。

つまり、お金の使い道がはっきりしているわけです。その使い道によって、身の回りの地域をどうするかということをよく考えているわけですよ。お金の必要性をわかっている人たちがお金を手に入れようとすれば、それがいい意味で使われるけれど、使い道がはっきりせず、お金はため込むものになってしまうと問題が出てくるような気がします。

必要もないのに、お金をため込むことが大事と考えるようになると、お金をため込んでから、「どう使えばいいんでしょう」と考えるようになる。「それなら、どこかへ投資したらいいですよ」「お金に困っている人に貸してあげてください。何とかしますから」といわれて、銀行などにお金を預ける。結局、お金がお金を生むというビジネスモデルになっていってしまうんですよね。

Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか

「お金をためる」ことを目的とした経済成長によって失われたのは、人と人との関係性だと思います。モノやサービスをお金を介してやり取りするようになると、確かに便利で、誰もがお金さえあれば何でも手に入れられるようになった。知らないうちに、古くからある人間同士のかかわりや助け合いという「関わり」自体も取引されてしまう。本来商品取引されるべきではない人の心に根差す豊かさの源と思われるものを次々と貨幣交換化してしまった。それが経済成長によって「失ったもの」だと、僕は思っています。最近よく言われる、「社会的孤立」とか、「無縁社会」とかも、この結果じゃないかなと思っています。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、それは何で、なぜですか

つきあいのもたらす豊かさを失うことって、多様な人、たとえば、世代を超えての人とのつきあいなどを犠牲にしていることなんだと思います。何が起きているのかと言えば、多くの人は、自分と同質の仕事をする人たちとのつきあいだけになりつつあるということ。自分と暮らし方が全然違うような、たとえば都会の人は農村の人と交流する機会などは極めて限られているでしょう?

都会の人は農村を、農村の人は都会を、旅行で訪問するくらいのことはするけれど、本音を出し合って、その土地の人と話をするような機会を持つのはごく稀だと思う。結局、自分と違う生活を送る人のこともよくわからなくなるわけです。何を失ってしまうのかと言えば、多様な見方を身につけていくための機会だろうなと思っています。

僕は、「いろいろな見方を吸収できる」というのが、人間の素晴らしい能力だと思っていて、これは多分、ほかの動物にはできないんじゃないか、と。人間には、多様な見方をいろいろな人たちから受け入れて、それを発展させられる能力があると思うんですよ。

でも、貨幣経済が進めば進むだけ、自分と接点を持てる人たちの幅はどんどん限られていく。つまり「分業」が進み、社会の構造化・階層化をつくり出しているのではないか、と。これが経済成長のもたらす犠牲だと、僕は思っているし、とくに、大資本に依拠する経済システムが深刻なダメージを与えていると痛感してます。

Q. 私たちは持続可能で幸せな社会にしたいと思っているわけですが、「持続可能で幸せな社会」と「経済成長」はどういう関係でしょうか

「持続可能で幸せな社会」を目指すことが最初にありきです。経済成長の必要性、言い換えれば、お金を何のために使うか、を考えてから経済成長を目指すことです。目指す社会が将来の何世代にもわたって続くために、私たちの社会はどうあるべきか、ということをみんなでともに考えてみるわけです。

みんなが考える中で、経済もどういう形のものが必要なのか。「貨幣が必要なの?必要なものはあるよね。みんなで交換するのも大事だよね。自分たちでつくれるものもあるよね」というように、水俣の地元学を始めた吉本哲郎さんが言う3つの経済、つまり、「貨幣経済」「贈与経済」「自給経済」の3つのバランスをとる経済を、みんなが真剣に考えていくことが、今、すごく重要だと思うんですよ。

その上で、「経済力」や「経済成長」は、どうして必要なんだろうか?という順番で考えていくのが望ましいと思っていますね。

これまでは、時代背景もあったからこそ、経済成長が最初に来た。経済成長でも、「国レベルでの経済成長」が求められた。それは、事実起こってしまった経過なので、変えようがない。

だけど、今から何ができるかと言うと、「常に経済成長の量から出発しなければいけない」という考え方に立つ必要はない。今こそ、人と、私たちが間借りしている地球の中で何ができるんだろうか、ということを真剣に考えたい。どういう生き方がいいのかという、生き方の哲学めいたところ、いうなら「経済成長の質」を先に考えて、成長しても、それを見失わないことだと思う。

僕は、まず「持続する社会のあり方」を考えることから始め、それから、個人の生き方を構想していくべきと思っています。そして、「生き方の部分でぶれない部分は何?」と、みんなが自分の中に持っている生きるこだわりみたいなものを確かめあっていく。そういうスタイルで、これからの社会の枠組みをみんなで協働してつくっていけるように、社会や経済システムを組み替えていけるように早く方向転換すべきだと思いますね。


インタビューを終えて

ブータンや水俣、長久手などさまざまなフィールドで活動していからこその実感と、研究者・教育者としての枠組みや視点を組み合わせて話していただき、とても勉強になりました。開発学の流れについても教えていただき、「経済成長」をめぐる考え方が、考えていなかったようなさまざまなところに、さまざまな意味で影響を及ぼしているのだと思いました。

さまざまな分野の方々へのこうしたインタビューを重ねていくことで、「経済成長学」ができそうです!

取材日:2014年6月21日


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