100人それぞれの「答え」

写真:アラン・アトキソンさん

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アトキソン・グループ代表

アラン・アトキソンさん

その活動の成功の測り方には、それを続けていけるかどうかを反映させるべきです

Q. 経済成長とはどういうことですか?

まず最初に言いたいのは、「世界では多くの人々が、この言葉のどの定義を実際に使っているかを考えずに使っている」ということです。

経済成長の定義にはいくつかありますが、最初に典型的な定義を説明しましょう。「資源と労働を使って、以前は存在しなかった価値を付加すること」というものです。台所に材料が入って、おいしい食事となって出てくるのと同じですね。以前はただのモノの集まりだったものに、経済的な価値を付加する、ということです。

2つめの定義は、GDPの測定基準と明白に関連するもので、「どれだけのお金の流れがあるか」です。

3つめの意味は、生物物理学的なものさしで測られる、「人間の経済活動の物理的な拡大」ですね。

4つめに、観念的または政治的な意味があります。人々が国や地域について持っている大まかなビジョンに関するものです。ここには、一般的な技術進歩という概念が含まれるので、とても複雑なものになります。言ってみれば、「生活水準の向上」であり、「主観的に体験する生活の質」です。ここに、幸せと経済成長とがごっちゃになる理由があるのです。

このように、少なくとも4つの定義があり、これらが私たちの世界で常に作用しているのです。ニュースを見たり、スピーチを聞いたりするとき、そうしたことを念頭に置く必要があります。その言葉を口にする人々の大部分は、自分たちが話していることについて必ずしも明確にしていないですし、自分たちが話している内容についてきちんと理解していないことさえあります。明確にしないまま経済成長について対話しても、混乱する可能性があります。

Q. 経済成長は望ましいものですか?

今話したように、「経済成長」と言っても少なくとも4つの異なることを指しますから、それぞれに照らし合わせてチェックしなければなりません。

経済成長を「一般的な進歩」、特に貧しい人々の生活の質の向上という意味で使うなら、間違いなくそれは必要でしょうし、大変望ましいことです。現在のニュースを見るだけでわかります。もし、リベリアやシエラレオネが実際よりも経済成長をしていたならば、死に至る伝染病と闘うための装備が整っていたことでしょう。医療器具や医療用品など、お金で買えるものすべてを手に入れやすかったでしょう。また、社会の団結や信頼も強く、行政の無駄遣いに対する不信感も少なかったでしょう。

ですから、4番目の定義は、要は人々と政府の間の社会契約についてです。ですから、経済成長をもたらしているかどうかに関わる大統領の浮き沈みは、この場合、経済成長は全般的な改善、人間の生活の質において、国の情勢として、少なくとも後退ではなく進歩を示す象徴だということです。

「それが望ましいかどうか?」は政治的な問いです。「望ましくない」と答える状況はごくまれでしょう。現在、中東から新しい存在が生まれつつあり、その存在の経済成長はおそらく急速に進んでいます。私にはこれが望ましいとは思えません。ですから、望ましさは、具体的な状況の背景を考慮して問うべき質問です。

それから、価値観と物理的可能性という2点について熟考しなければなりません。もし、生物物理的な経済成長が続き、その基盤である生物物理学的なシステムの崩壊をもたらすならば、おそらく望ましくないでしょう。しかし一方で、ある国で入手可能な資源に何らかのバッファーがあり、貧困が蔓延しているならば、「経済成長は人々にとって望ましくない」とは私にはとても言えません。

Q. それは必要なものですか、それはなぜですか。必要なものであれば、どの程度まで、いつまでですか?

先ほど述べたような場合は、「必要」というだけでなく、「人間の権利」だと見なさるかもしれません。「必要なものであれば、どの程度、いつまで?」についても、ケースバイケースです。世界は1つの集合体ではなく、個々さまざまだからです。

「どの程度まで?」という質問については、2つの疑問が浮かびます。1つめは、「どの程度までなら物理的に可能だろうか?」ということです。資源の自由な使用、価値を創造するプロセスの確立、資源の消費、全般的な技術の進歩、生活水準の向上――かつてのイースター島のような崩壊を招かずに、それらは可能でしょうか?

2つめの疑問は、「それは公平だろうか?」です。私たちはグローバルに相互につながった世界に住んでいます。欧州の漁業企業がアフリカ海域で漁業をして漁獲量を増やし続けることは公平でしょうか? 

それぞれの場合で、科学的な疑問が浮かびます。エコロジカル・フットプリントを超えてしまうのはどこからだろうか? 後戻りできない点とは? ティッピング・ポイントは?何が公平か?――倫理的な限界の一線を越えてしまうのはどこからだろうか?といった疑問です。

Q. 経済成長を続けることは可能ですか、それはなぜですか。

ええ、まったく可能です。可能でなくなるまで可能です。「デカップリング」と呼ばれる、大きな効率改善によって、ある種の可能性は延長されるかもしれません。

想像できる限りでは、「経済成長を続けることができない」と述べる理論的な理由はほとんどありません。エネルギーや資源や水に関する生物物理学的な問題を解決することは、音楽を創作するための別の方法を探し、科学的なパズルを解いているかのようです。

経済成長を測るGDPについての問いが浮かんできますが、それだけでも長い問いになります。その活動の成功の測り方には、それを続けていけるかどうかを反映させるべきです。繰り返しになりますが、ここでも「経済成長をどのように定義するか」によって考え方が違ってくるでしょう。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、それは何ですか、なぜ生じるのですか?

私は日本のある方と話をしているのですが、この質問は「サラリーマン」という言葉を思い出させます。長年日本が経済面だけで進歩することによって、どれだけの日本人の家族が犠牲になったことでしょう。もしあなたが漁師で事業拡大を願っているならば、何人かの仲間を転落などで失うことでしょう。ひどい状況のフクシマを見ていると、より大きな規模でわかります。

もちろん、犠牲を伴います。私たちが経済成長を測る方法は――よく知られているように――、人間の生命と生態系の完全性に損失を与えているものを識別する上では、驚くほど出来が悪いのです。または、倫理について考えれば、呼び方はさまざまですが、私たちの意識や精神などにも経済成長は負担をかけています。

犠牲とデメリットに関する質問については、またさまざまな定義があり、そのなかで見えなくなることもあります。経済成長に強く反発する人たちは、生物物理学的な世界を大切に思うがために、「こうした限界は交渉不可能で、犠牲とデメリットという観点でのみ話すことができる」と考えていますが、それは問題だと思います。この質問に対する私の答えは、「もちろん、犠牲はあります」です。倫理的な問題です。

Q. あなたの国がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか。

私には、スウェーデンと米国という2つの国がありますが、両方の国とも多くのものを失ったのは間違いありません。

過去50~60年の間の平和な時代の経済により、スウェーデンは多くの利益を得ました。第2次世界対戦後、数回の大きな中断はありましたが、スムーズな経済成長により、とても豊かな福祉国家を実現しました。貧しい人々の暮らしもよくなりました。

もちろん、伝統、景観で失われたものもあります。スウェーデンには水中のゴミ捨て場があり、深刻な事故が発生する可能性をはらんでいます。大量の有害な廃棄物が置かれているホットスポットがあることも知りました。誰も何もできません。なぜなら、触るとその海の大部分が死滅しかねないからです。

実際の損失に加えて、将来生じる損失もあります。将来の負債がそこに待ち構えているのです。米国の場合はもっと話が大きくなります。人間だけでなく自然の損失もあります。経済成長の結果として生じた損失です。しかし、私に最も関係の深いこの2つの国では、おそらく平均的な人の経験では失うものよりも得るもののほうが多かったと思います。

1960年代からあとの時代に生きてきた人なら誰でも、著しく改善された医療・歯科サービス、興味深い新しい食べ物へのアクセス、旅行する機会、教育の機会、テレビのチャンネルの多さなど、生活の質といえば人々が思いつくようなことが向上しました。たとえ人々が、特に大切な自然システムの地域を通過する高速道路についてときどき不平を言ったとしても、です。ですから、そうした損失は遠い世界のことのように思えるのです。

主観的な経験においては、認識されている恩恵のほうが著しく大きいのです。スウェーデンや米国の平均的な人に、「この恐ろしい汚染問題を回避するためにスマートフォンを使うのをやめられますか?」と尋ねても、なかなかできないでしょう。非常に難しいと思います。市場力学は、人々がそのような選択肢を選ばなくてもよいようにつくられているのです。

確かに損失はあります。繰り返しになりますが、しかし、認識されている恩恵が損失を上回っているのです。そうではない例外的な人々は、失われたあるものに対して強い感情を持っていたり、失われたもののリスクと価値観について強い見方をしていたりしますが。

Q. 「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると考えますか?

私の古くからの友人で、こういったことについて教えていた人がいます。彼は「給料のために働くのはまるで捕らわれの身のようなので、利息で生活ができるまで給料を貯めよう」と考え、30歳ごろからの生涯は、1日も働かなくてよくなりました。彼の収入はごく少ないのですが、それでもとても自由でした。

彼はよく、こんな話をしてくれました。あなたが貧しくて、お金を稼ぐようになると、最初の進展が膨大な恩恵をもたらすのだよ、と。泥壁の小屋から、雨漏りしない小屋へ、そして次には、おもちゃもいくつかある家になって、みんなが中に入れるほどになる。こうして、基本的な物質的進歩が続きます。

次の展開でも幸せや満足感を得ることができます。旅行やインターネットでの交流など、新しい機会もあり、それらからも幸せを感じます。世界各地の友達ともっと交流すること、決して見ることがなかったであろう美しい場所を見ること、そうしたことが人々の主観的な幸福感を高めるということに同意しない人はほとんどいないでしょう。

彼によると、第3段階は贅沢な段階です。別荘やボートを手に入れたりします。そして彼はこう言いました。「この進捗線にはある地点があって、そこまではロケットのように上向きに上昇していくが、ここに到達するとひっくり返る」。突如として、物事がひっくり返り、幸せよりもストレスを感じるようになります。

私の近所の人たちの多くはボートを持っています。ボートが大好きで、ボートを所有していることでたくさんの幸せを感じています。しかし、そのボートのために一生懸命働かなければなりません。でもスウェーデンでは、ボートが使えるのは年に数週間だけです。それでも「ボートを持てることで、幸福度が増した」と言うでしょう。

経済成長による所得や購買力など、また、新しい技術の実現に伴って、幸せは急増するという関係性があります。まず急速に成長し、その後、いわば飽和状態になります。飽きるのです。実際のところ、経済成長がさらに進むと不幸を生み出します。例えば、中国では急激な経済成長が信じがたい汚染という損失をもたらし、不幸せになった人たちがいました。

世界の70億の大部分の人々はたいてい、「経済が成長すればするほど幸せだ」と言うでしょう。実際のところ、私たちがこれ以上拡大できないという生物物理学的な限界に対処しようとするとき、このことが大きな課題になります。なぜなら、「ビーチへの旅行に行くよりも、瞑想するほうが人間は幸せになれる」という議論で大部分の人々を説得できるとは思えないからです。消費者需要を改革する上で、少なくとも即効性のある策略ではありません。温和な独裁者が「ビーチへ行くのを禁止します。瞑想キャンプをします。私たちはみな、瞑想キャンプへ行けば同じくらい幸せになります」とでも言わなければ難しいでしょう。

経済成長はとても複雑なパズルです。私たちは結び目をほどかなければなりません。生物物理学のピースに一生懸命取り組まなければなりません。また、国の進歩のピースの骨組みを作るためにも一生懸命取り組まなければなりません。さらに、測定基準と指標にも取り組まなければなりません。そうすることで、キャッシュフローのみを測ることがなくなります。できるだけ「創造的になる」という重要なプロセスに焦点を定め直すのです。持っている資源を使い、持っている人材と知性を使い、物事を興味深い方法で合わせるのです。


インタビューを終えて

アラン・アトキソンは、世界の持続可能性に取り組む研究者や実務家のネットワークであるバラトングループの仲間です。米国生まれで今はスウェーデンに住んでおり、サステナビリティのための企業や国連へのコンサルティング、執筆などの活動の傍ら、作詞作曲して自分で歌ってCDも何枚も出しているミュージシャンでもあります。

アランの広い視野での見方や考え方に教えられることが多いのですが、今回も経済成長についてさまざまな角度から考えていることを話してくれました。

取材日:2014年9月13日


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