100人それぞれの「答え」

写真:川口 真理子さん

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株式会社大和総研 調査本部 主席研究員、NPO法人社会的責任投資フォーラム共同代表理事

河口 真理子(かわぐち まりこ)さん

100年後には株式会社はなくなると思う。

Q. 経済成長とはどういうことでしょうか

世の中の人が言っている経済成長というのは、「GDPが増えること」と一般的にとらえられ良い事だと思われています。何でそうなったのかを考えてみると、成長という言葉、growthという言葉のイメージは、「子どもが大きくなる」みたいな前向きなものですね。「育つ」「大きくなる」というのは、「ベターになるよ」という意味があって。

だから、「より大きく育つのはいいことだ」的な価値観が背景にあって、だから「成長はなんでもいいことなんだよ」というような暗黙の発想になっているように思います。だから「経済成長も良い」ことで、そうなら、「どうやってそれを測るの?」となって、「今の世の中だったらGDPの大きさで測るのがいいんじゃないの?」と、GDPの大きさで測っているという仕組みがある。

だから、「経済成長がいいことかどうか?」という質問は、人によって受け方が全然違うはずなのです。「何をもって経済成長とするのか」をまず問わないといけない。質的な発展という意味なのか?「GDPが増えた」と日本経済新聞に書いてあることが経済成長なのか?によって、かなりその意味合いが違ってくるんですね。

逆に言えば、脱成長論者の人たちにありがちな「GDPが増えることは悪だ」と言い切るのもどうなんでしょう?成長は善か悪かという単純な問題でもないでしょう。とりあえず、悪と言っている人たちも、自分たちは確実に今の豊かな経済レベルの恩恵は受けているんですから。大企業のアクセクした働き方を批判して、田舎でネットを通じてスローな暮らしをしている人たちがいますよね。でもネットでスローな暮らしが出来るのも大企業でアクセク仕事している人たちがネット環境を作ってくれているからで。一方的に批判して済むものじゃない。お互い様という基本スタンスは大事にすべきだと思う。

では、われわれは何を目指すべきか?社会のコンセンサスが取れる経済成長というのは何か?まずそれを問うべき。

第一に「GDPの成長」を単純に「経済成長」とすることは、私はいけないとは思う。
けれども、人間というのは向上心があるので「発展」ということは求めるものだから、「成長する」ということに関してそれを否定するものではない。また経済的に豊かになることが悪いことかと言うと、そうでもない。ただし、GDPが経済的な豊かさを測る指標として適切なのかというと、違うと思う。

GDPをかさ上げする要因には富や豊かさにネガティブな影響を与えている要因が少なくなく、その弊害が大きくなっていることを考えると、今のGDPによる経済成長というのは非常にミスリーディング。でも、発展や物質的に豊かになることを否定するものではありません、というのが私の答えです。

Q. 世の中ではGDPが増えることを経済成長と言っているけど、それで発展とかを測るものではない、と。

そういうことですね。経済成長のKPI(主要なパフォーマンス指標)にGDPを使っているから、結論を間違っているのではないの、ということです。

もともと、GDPの始まりは、第二次世界大戦中に、敵の国力がどのくらいあるかを計算するために国が富として保有している総額を計算するために開発されたと言われます。それを便利だから経済政策の基本ツールとして流用してきただけですね。豊かになるための経済を測る指標として開発されたものではない。

先日、アダム・スミスの本を読みました。実はアダム・スミスは、「物質的な成長と心の豊かさはリンクしている」とは一言も言っていなくて、「それとこれとは違う」と言っている。彼が最初に書いた『道徳感情論』は、1759年が初版で、その後6回改訂されていて、1776年に『国富論』を書いた後にも改訂している。そこまで入れ込んでいるのをみると、彼は国富論より、道徳感情論の方を言いたかったということがわかる。つまり「人の心の豊かさ」とか「道徳的なモラル」ということを究極には言いたかったと思います。

けれども、何で『国富論』を書いたかと言うと、私の推論ですが、当時はまだ近代化・高度成長の前なので、マルサスの罠が生きている時代で、ちょっと疫病や飢饉があると人が大量に死んだりして、結局人口が増えない。飢饉があってここの村は人口は半分になったとかいう状況下では、「どうやったらみんな飢え死にしないで生きていけるのだろうか」ということは至上課題だった。「貧しくて死んでしまう」ということから脱却できるのか、という強烈な問題意識があったように思います。

そのためには、「もっと暮らしに困らないモノが増えるように産業が起きて、みんなが十分に食べられるようになったら良いのではないのか」と。それで、「どうやったら産業が起きて、より多くの人が食べられるような仕組みができるか」ということを、農村や商人、職人の活動をつぶさに観察しながら、一生懸命考えて、そこから法則性を引っ張り出してきたのが、『国富論』だったのではないか。

アダム・スミスの時代は、「とにかく、食べていけなかったら、幸せも不幸せもないでしょう」というところがベースライン。しかし、200年以上たち、物質的な状況は大きく変わったので、ロジックも変わっていかなきゃいけないのに、そのまま残っていたということではないかな、というのが私の解釈です。

そうやって考えると、当時の人としては、「物質的に豊かになる=より多くの人が養えるようになる=人類が栄える」ことだから、それを追求しようと。ただし、アダム・スミスは、『道徳感情論』の中で、くどいほど、それと個人の幸せとは違う、とも言ってます。

彼は、「そのあたりの乞食と王様では、心の満足度は同じかもしれないし、乞食のほうがいいかもしれない」とも書いていて、私はビックリしました。「貧しい農民の息子が、隣にいる金持ちの人を見て、自分もああいうふうになりたいと決意した。そのために必死になって、おれは何でもやると働き始める。最初の1カ月で、彼は、生涯得るべきであった幸せを捨てているかもしれない。そのためにガリガリ働いて、死ぬ前になってやっと豊かになって、大きなお屋敷に住み、召使いを雇い、という暮らしをしているかもしれないけれども、そのときには、豊かになるために無理したので、心はボロボロ、体もボロボロ」という主旨のことも、『道徳感情論』に書いてあります。

でも、『国富論』を読むと、「人は、隣の人があんなに物を持っている。よし、頑張ろうとすぐ思う。それは錯覚だ。『たくさん持っているから、あの人は幸せに違いない。私も持ったら幸せになる』というのは、実は錯覚でその人の心は不幸かもしれない。けど、自分が持っていないものを持っているからいいなと思って、よし頑張ろう、と。自然はそういうふうに人に錯覚をさせる。それがドライバーになって経済活動を頑張る。それで経済活動が起きて豊かになるから、錯覚させておけばいいんだ」という主旨が書いてある。

何で豊かさは幸せだと錯覚させて豊かになるために人を頑張らせなければいけないのかと考えると、当時は貧しくて油断すると飢え死にするような状況なので、豊かにさえなれば飢え死にする人は少なくとも減る、というところから来ているんだと思います。
しかし、それは、個人の幸せとは必ずしも関係ないとも強調しています。後世の人が、「豊かになれば幸せになるはず」と勝手に決めて、アダム・スミスを都合よく引用して勝手に成長イコール豊か、イコール幸せとしただけで。

だから、今の状況を、アダム・スミスが見たらびっくりすると思う。「そんなこと言っていない!」って。

Q. 『国富論』しか使っていないしね。

そう。後世の経済学をやってきたという人たちは『国富論』の都合のいいところだけ使っていて、市場メカニズム絶対主義でモノさえ増えれば豊かに幸せになるという大きな誤解の上に、「経済成長は善」という議論が起きている。「(神の)見えざる手」も1か所しか出てこない。

Q. そういった経済成長は、望ましいか、必要か、続けることは可能か

今言ったような、GDPをKPIとした経済成長ではなくて、本質的な意味で、人は生まれたら進化したいと思うので、豊かになるために努力をすることはいいことだと思います。

でも、「豊かさをどういう指標で求めるか」においては、議論しないと。高度成長時代はテレビがあったほうがいい、車があったほうがいい、と。そうすると豊かになった気持ちになれる。
でも、今の日本の状況、ここまで来たら、それとは違う所に豊かさがあるんじゃないか、と。だから追い求める方向は変わらないと。

まず人が常に進化したいという思いを、「成長」と見るか「発展」と見るか。そこから考える。「成長」と言うと、何となく数とか量が増えるというか。「発展」と言うと、もっと質的な意味を含む。いわゆる物質的な経済成長から、本来であれば、心を含めた発展にシフトするべきであろうと思います。

特に、今からやみくもに物質的な成長すると言っても、地球は1個しかないし資源には限りがあるので、それをいかに効率的に有効活用するか。資源を有効活用する企業努力は、個別企業の生産性向上となり「利益の成長」を生み出す場合もある。それは否定することではないし、個々の企業が切磋琢磨して努力して、少ない資源でより多くの満足が得られるようになれば、それは社会全体にとってはプラスなのでどんどんやっていくべきだと思う。

ただ、企業単位というミクロ的にはよくても、地球が1個しかないのにパイ全体がどんどん大きくなることはないので、マクロ的にこうした成長は無理がある。つまりミクロとマクロの整合性を考えると、物質的な成長を「質的な意味を込めた発展」という形に置き換えていくのであればいいと思うけれど、今のやり方はそこまでいってないのでミクロ的成長の総和をマクロの成長としているので、このままなら行き詰まるでしょうね。

Q. どうやって整合性を取るんでしょうね? ミクロでは各社は成長を求める。それはそれで良い場合もある。だけど全体としては、地球は1個だから、マクロでは整合性は取れない。今、その折り合いがついていないから、こういう状況になっているのだと思うのですが、どういう折り合いの付け方があるのでしょう?

折り合いの付け方の1つのヒントは、すでに企業体の変化の中にあると思います。利益成長を義務付けられた「株式会社」は、常に成長していることが求められている。魚でいえばマグロみたいに常に前進し続けないと死んでしまうというビジネスモデルになっているので、たぶん、将来はこの形態はなくなるんじゃないかと。

Q. なくなる?!

私は、100年後には株式会社はなくなると思っている。少なくとも経営主体としてはメジャーではなくなる。150年前も日本経済を支えてきた企業体のうち株式会社は多くなかったでしょう。だから100年後に消えてもおかしくない。これからの世の中今あるような株式会社はやっていけない。なぜかと言うと、マグロが常に前進しなきゃいけないように常に成長しないといけない組織がこの狭い地球に溢れるのは無理だから。

この間、近大マグロの養殖に成功した先生の話を聞いたのだけど、とにかくマグロって直進しかできないので、稚魚を入れると養殖池の壁にぶち当たって死んでしまう。ブルーシートに数ミリの稚魚が刺さって死んでいる。なぜよけないのかというと、彼らの生態は広い太平洋を常にグルグル回っているので壁にぶつかることがない。だから前進するヒレしかないらしい。マグロは壁があることを知らない生き物。でも養殖は「壁の中で」となる。養殖池に入れられたら壁にぶつからないでグルグル回る魚にならないと死滅する。グルグル回れる魚に生まれ変わらないといけない。環境に合わせて体が変化する適者生存が必要となる。

株式会社のように、利益成長を至上課題とするような組織が引っ張る経済は、地球1個の制約のもとではやっていけないので、組織形態自体が変わらなきゃいけない、ということ。それは、今の大企業がそのまま変わるということではなくて、違う組織がとってかわるのではないかな。たとえば今NPOやソーシャルビジネスとかに転職する優秀な若者がすごく増えている。「マグロはもうこの環境では生きていけないので、ヒラメみたいなのんびりした魚になって生き延びようか」みたいなことじゃないかしら。「ヒラメのほうが今やサステナブルじゃない?あのマグロはもう行き詰まるよ」と若者は潜在的に感じているのではないかと思う。

これから、優秀な人的リソースは営利追求型組織から、社会貢献型組織へシフトしていく。つまり20世紀までは地球は無限が前提で経済成長の壁が見えなかった。だから利益の成長を追い求める株式会社が、成長の為に一斉に、「みんなで頑張ってどんどんモノつくろう」と全員で前進するマグロモデルが良かったのだけど、今や壁があちこちに出現し、皆がこのままだと壁にぶち当たって死ぬことが分かって来た。

だから、マグロがヒラメとかマダイやブリなど、止まったり後退できるサカナに変態しはじめている。同様に2100年ぐらいには企業というか経済価値を生み出す組織の形態も変わると思います。

どんな組織かというと、ヒントになるモデルは、老舗の料亭。老舗の料亭って、支店とか展開すると絶対に駄目になるっていわれますよね。腕を磨いた板前さんが管理できる規模の店舗で、限られたお客さんに良い料理とサービスを出す。別に売上が伸びなくても、常に板前さんが切磋琢磨してお客さんをひきつける努力をしている。このお店に来た人はみな満足する。そうすると、このお店にかかわっているステークホルダーにはちゃんとキャッシュフローが回るようになっていて。

こうした老舗のような「大きくならなくても、かかわっている人に十分にキャッシュフローが回る」という、そっちのビジネスモデルが経済主体のメインになってくるのじゃないかと思います。去年より来年、来年より再来年のほうが伸びなきゃいけないと無理して拡大するから、味が落ちてお馴染みさんから見捨てられたり、アユを使いまわすなんて不祥事起こしたりするので。

ただ、老舗でもそうだけれども、努力しないと駄目になるので、競争はある。売上は増えなくても、一定のキャッシュフローは確保する努力は必要で、かつ「成長」というのを、「お客さんの満足度を上げていくこと」という質の発展に置き換えれば永遠の成長というか発展は可能。そういう成長、が21世紀型に求められる成長。

先ほどの話に戻ると、その兆候がソーシャルビジネスへの関心だったりすると思います。
NPOやソーシャルビジネスへの若者の関心は、一時的なものではなくて、20世紀型の「株式会社型引っ張り系のモデル」が、21世紀型の「サステナブルな事業形態」に変わるきっかけだとみています。そういう文脈で企業のCSRを考えるとCSRは大企業がソーシャル化しようとしている一歩、みたいと捉えられます。

これを生物で言えば、海の中にいたお魚が陸に上がってきて、最初は両生類みたいになってから、馬のような陸上生物に進化していくでしょう。最初に海から陸に上がった時に、両生類が持っていたヒレみたいなやっと陸上で動ける頼りない四肢が、進化の過程でどんどん発達して馬の足みたいになる。「海からやっと陸上に上がりました。ヨチヨチ」というヒレが、大企業のCSR的な発想だとすると、陸上での暮らしが長い生物の馬さんの足みたいに進化するのがソーシャルビジネスやNPOではないかな、と。

そうなれば、資金調達のあり方も変わると思う。「成長する株式会社に投資して儲けようよ」ということから「そこの会社に投資をしたら、キャッシュフローはあるので配当はもらえる」みたいに。過去あったように、株価がガンガン上がってというようなのは、50年100年単位でみるとあまり期待できなくなるのではないかな。衣食住にかかわる多くの事業は老舗の料亭化していくので。

そうなれば、資金調達は、ソーシャルビジネスに対するクラウドファンディングみたいなものがメインになるんじゃないでしょうか。「この会社だったら、事業はしっかりしているから毎年ちょっと配当がもらえて、世の中にいいこともしているという話があって、投資してもいいんじゃないの?」、多くの個人が共感するソーシャルビジネスにネットを通じてちょっとだけ投資していく。そういう資金調達の仕方がメジャーになるんじゃないかなと思います。

Q. 金融や資本が、無理やりでも成長を推し進めてきている部分ってあると思います。ある意味、河口さんはまさにそういう役割を果たしている会社に勤めていらっしゃる。金融や投資で、「株価が上がるから投資しようよ」という形ではない動きって、出てきていますか?

出てきていますね。最近ではESG投資とかインパクト投資といったりしますが、環境や社会に配慮した投資です。自分へのそこそこのリターンと、社会への良い影響の両方を考える投資です。ちょうど今、これに関する本を書いているところです。

なお「すごく儲かるチャンスもあるが、全部なくすリスクもあるので、どうやってリターンを最大にしてリスクを最小化するか」というのが今の投資セオリーでいわれていることだけど、どうも日本人の場合リスクを取ること自体が投資を実践することの壁になっていると思います。日本人の場合はリスクを取りたがらない国民性といわれますが、良く考えると上場会社に投資するリスクには、ビジネスリスクと相場リスクと2つあって、分けて考えないといけないと最近考え始めました。

「この会社は今後このリスクをつぶせば業績は大きく伸びるだろう」などビジネスリスクとチャンスを判断して投資するのが本来の株式投資です。しかし投資する際の株価は、ビジネスの現状と将来期待をそのまま反映した株価とは限りません。例えば日本経済新聞に「この会社は来期何割増益予想」とニュースに出た時にそれは凄いと思って株を買ったら、もうその時は株価がピークアウト、みたいなことはよくある。

なぜかと言うと、そんなニュースになった増益予想を市場関係者は半年前から知っていて、そのときから買っていたのでこの増益ニュースが出たら、「あ、やはり。材料出尽くしで売ろう」って売るので株価は上がらない。まあ、市場関係者の予想を上回る増益だとさらに上がる可能性がありますが、予想内だとそれ以上は期待できないですね。こうした相場の動き、市場関係者の状況を知らない人はニュースが出たときの高値で買って、「え?増益なのに、何で?」となると不信感が募る。つまり相場リスクというものを勘案していない。

事業リスクと相場リスクは違う。その発生するタイミングも違うし、相場の場合はその時の需給関係とかもあるから、その時の相場を知らないとわけがわからない。事業リスクを取りに行ったつもりで、相場リスクを取っているから、その株価上下の理由がわけがわからなくて、「ギャンブルじゃない?」というふうになる。

これが、一方今のマイクロ投資やクラウドファンディングになると、上場していないから相場リスクはない。「この会社がやっている事業がうまくいって、利益が倍になったら、配当が倍になりますよ。駄目だったら返ってきません」くらいの事業リスクなら取れる。ある程度事業の想定ができるので。
そうやって考えると、事業リスクにお金を投資していく。今のマイクロ投資とか、市民発電所への出資とか、ワーカーズ・コレクティブみたいなものが増えるのではないかと考えています。
つまり今後の投資とは、一部、ハイテク系やバイオ系だとか、まだまだ高い成長が期待される新しい分野にはリスクを取る投資資金は行くだろうけれども、衣食住にかかわる大きな変動がない分野であれば、皆さんが毎日食べていくのに十分なレベルを、老舗料亭系の投資先に直接投資してそこからキャッシュフローを回収していく、二分化していくんじゃないかな、と。それも上場する大企業もあれば、街の食堂とかコミュニティビジネスに地域のみんながクラウドファンディングで出資して支える、そういうソーシャル出資型も広がるでしょうね。現に内閣府は地域の事業に出資する「ふるさと投資」の仕組みを推進しているし。

Q. さっきのマグロの話もそうだし、定常経済でいいんじゃないのという、そこですよね。気づきつつあって、そういうところに動きつつある人もいるけど、まだ今のところ主流派はマグロ型ですね。

マグロ型ですね~。主流派というよりも、今の経済や社会の決定権を持っているリーダー層のマジョリティがそういう発想のままなので。でも、あと30年たてばマジョリティ層が入れ替わる。だんだん、古いタイプのマグロはいなくなって、気がついたら全部ヒラメとブリになっていましたみたいになるんじゃないかな。

Q. 面白いですね。

まあ世代が替わればなんですが。でも、今の世代に対してもまだマグロ型だと、みんなどんどん激突して自滅するので、激突する前に変わろうよ、というメッセージは大事。

Q. そうですね。さっきのヒレの話で、大企業のCSR部の人たちの役割が明確ですね。

でもまだヨチヨチ歩きのヒレなんで。

Q. 今のところは、ですね。経済成長を続けることは可能かと言うと、地球は限界があるという話ですね。その前にもう1つ、アダム・スミスのころは経済成長が必要だったわけじゃないですか。飢えている人がいたから。たとえば、日本はもう違う段階に行っている。経済成長が必要なフェーズと、もういらないフェーズ、本当は切り替えたほうがいいフェーズというのは、どうやったらわかるのでしょう?

切り替えということでは、取りあえず、日本はどう考えても変えるフェーズですね。それを見る指標としては豊かさを測る使用として一人当たりどのぐらい資源を持っているか、でしょうか。例えば一人洋服何着ずつぐらい持っているか、教育レベル、水がちゃんと飲める、電気がある、文化的な生活ができる。体の健康と教育とネットワークができて、文化的な生活ができることを指標とする。

でも、基本的な衣食住は十分でも、技術進歩はさらに次を追い求めていて最近ではiPadだとか新しいモノが生まれて、どんどん飢餓感不足感をあおるわけですが。

Q. 経済成長を続けることの犠牲があるか、あるとしたらどんなものか

さっき言ったような経済成長を続けることの犠牲は、GDPで測れないところを削って、GDPに上乗せしているのじゃないの、ということ。

たとえば日本ではここ数十年、セコムとか警備保障がビジネスになっていて、それはGDPにとってはプラス要因。だけど、40年前50年前は、日本は安全だったので、鍵はいらなくても大丈夫なところがたくさんあった、と。

水もそうで、今は水が汚れているから、浄水器ビジネスが生まれる。私が子どもの頃、日本の水道水はどこでも美味しいと言われて育った。アメリカに滞在して、水は買うものといわれびっくりした。どこの水でも飲めるほうがQOLは高くてお金はかからないけれども、GDPには寄与しない。

ビジネスが世の中の需要から出てきたということだけど、それを生み出す要因が経済発展の負の部分だったりする「ない時のほうが良かった~」みたいなのも結構ある。あって良かったものもあるけれども、失ったものも結構あって。

昨日、高分子化合物の話を聞いたのだけど、赤ちゃん向けの紙おむつが高性能になりすぎて、逆に体に良くない、最近では3歳は当たり前、4歳くらいまでおしめしている子、いるでしょう。

「オーガニックコットン」のアバンティの渡邊智惠子さんが言っていたのは、昔は、布おむつだったので1歳ぐらいになったら、おしっこを「教えなさい」と言われた。「ママ、もれる!」というと、トイレに行くまで「我慢!」と言われて、そこで肛門をキュッと締めるという訓練ができた。今は、何の我慢もしなくていいから、一切締めなくなって、筋肉が鍛えられないから、最近の若い人で頻尿が増えているらしいと。子どもの体を考えるなら便利な紙おむつに過度に頼らず、なるべく早くトイレトレーニングをしなさい、と。

お母さん的には、おむつは昔布の始末が大変だったし、紙でも大きくてかさばっていたのが小さくなったから、更に便利になって助かった、という背後に、そういう問題がある。

また、スマホなどIT技術が進みすぎて、デジタルが子どもの精神にどういう影響があるのかとか、わからないようだけど、人格形成上問題がないわけないと思う。

便利になる一方で昔は当然だった価値をどんどん失っている。昔あった価値を削って、新たな技術をGDPに組み込んで価値として計上する。紙おむつの場合今いったようなデメリットが見えないので、「おむつがこんなに売れました」という分かり易いプラスだけが伝わる。

Q. おしめが売れてもセコムが売れても、GDPは増えますからね。

そう。ストレスがたまる暮らしで、うつの人が増えれば病院の収入が増える。「うつじゃない人が増えたほうが健全な社会」という部分が見えてこない。

Q. 日本も経済成長をしてきましたが、具体的に犠牲とか失われたものは?

日本人が持っていた自然の味覚というか、得られた自然の価値は随分減っている。でも、お湯が出なくて不便であったり、昔は汲み取り式のトイレで臭かったよ、みたいな部分が随分なくなり快適になっているので、感覚的にどうなんでしょうね。皮膚感覚では、冷暖房もあるし快適になった良くなった、という感覚はありますよね。

しかしあまり失ったと思わないのかもしれないけど、自然の風景とかはすごく失われている。里地里山の景観と河川や砂浜の海岸、などの自然と。水がまずくなったとか。アユもホッケも小さくなったし。日本のウナギもいなくなったし。それをどのくらいの人が失われた価値と思うか。でも「何が価値か」というのは、そのときの時代によって違うので、注意しないと。

私がよく使う話に、合掌造りの白川郷があります。行ったことありますか?行った人はわかるけど、あの場所は、すごく田舎というか、middle of nothingという所にあるでしょう?

白川郷に車で家族旅行した時白川郷が近づくにつれ周囲がどんどん寂れたところになっていって。うちは会津の過疎地に家があるから、田舎に慣れているはずの私たちも、「ほんとに大丈夫?この先に世界遺産があるわけ?」

その途中には、トタン屋根のみすぼらしい集落がさびしげにあってそのどん詰まりに白川郷がやっと出てきた。

白川郷や同じ合掌造りで有名な五箇山とかで話を聞いてみると、実は途中に見えたみすぼらしい集落も全部、昔は白川郷みたいな合掌造りだったとのこと。昔は、当然そうだったんだけど、手前の集落はアクセスが良かったので、戦後、どんどん経済的に豊かになり、西洋風の物質がどんどん流入してきた。

Q. トタンとか。

そう。それで、「こんな古臭い合掌造りはやめて近代化だ!」と、トタン屋根の近代的なピカピカのお家にしたはずだった。しかし30年たったら、トタン屋根はみすぼらしくなり、古臭い合掌造りは世界遺産。
当時は、白川郷の人は、恥ずかしくて「白川郷出身だ」って言えなかったそうです。「いまだに古臭い合掌造り」と言われるから。だから、価値といっても歴史的な時代を経られるものなのかどうか。「トタン屋根で格好いい」「今風じゃない?」が、30年であっという間に古くなる。時代を経ないとわからない価値というのがあるんじゃないか。それを今見極められるか。

今、日本全国で、近代化におくれた古いモノの価値を見いだす動きが出ているように思います。特に若い人が着物が好きだとか。「本来の価値は何だったのだろう」という問い直しが起きている。

今までのGDPの価値観からすると、「トタン屋根の家を新しく作るは近代的だから良い」となる。でもたぶん、白川郷のような藁葺きを補修維持するほうが、付加価値が高い時代に移行しつつあると思います。

Q. 「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると思われますか

「経済成長」と「持続可能な社会」は本質的には関係ないです。ただし、今の経済の仕組みは、税金の仕組みにしても社会保障の仕組みにしても、経済成長を前提にしている。物質的にモノがあって十分だとしても、社会的な仕組みとしてモノがちゃんと行き渡るためには、成長しておかないといけないという、変な仕組みをつくっちゃったので。そこを変えないといけない。

よくあるのは、「人口が減ると社会保障が駄目になる」という議論。人間のために社会保障があるのに、「社会保障のために子どもを生め」って、逆転していると思うけど、現状だけ見るとそういう本末転倒な議論になっちゃうんですね。

それを分けて考えて、経済的には増えない、人も増えない、その前提でもう1回仕組みをつくり直そうよ、と言わなきゃいけないのだけど、既存の仕組みでいきなりそれをやると、非常に抵抗も大きいし、弊害も大きい。

Q. どうやって変えていったらいいんでしょうね。

既存の建物(仕組み)を壊して新築して一気に全員で引っ越すというより、徐々に、今まで暮らしていた建物はそのままで、新しい建物には出来る人から少しずつ引っ越しましょうね、みたいな感じでしょうか。一部の若い人たちはもう、あっちから下りちゃって、こっちに来ている感じですね。
ただ、既存の建物に居る人のほうが圧倒的に多い。それをどうこちらに来てもらえるか。

Q. おっしゃったように、年金とか社会保障とか、成長を前提として作ったものが、立ち行かなくなるでしょう? ソフトランディングの道が、何らか示せるといいのでしょうけど。

ソフトランディングの道が示せないと、ハードランディングになっちゃうから。それを経済政策担当者も政治家も恐れていますよね。

Q. クラッシュですよね。

このままだとクラッシュですね。経済のクラッシュだけではなく、環境のクラッシュがより怖い。環境活動をしていて私が感じるのは、これって「メンシェビキ」的だなという後ろめたさ。「ボルシェビキ」的な大変革が起きたらどうしよう、って。

「ボルシェビキ」と「メンシェビキ」ってご存知?ボルシェビキというのは、ロシア革命のときに言われたことです。レーニンが指導した労働者による社会革命のことです。ツアーによる絶対封建体制を、下からひっくりかえしたのが下剋上的な革命がボルシェビキ。

それが起きたのは1917年です。でも実はそれをさかのぼる10年以上前からメンシェビキという社会改革運動がありました。それは何かと言うと、ロシア貴族階級の若者が、「貧しい農奴とツァーの絶対的な権力構造、この極端な不平等社会のままならロシア帝国は崩壊するから、帝国と貴族階級の仕組みは維持しつつ、貴族階級から漸進的に改革をして、農奴の権利を認め彼らの生活を豊かにして、不満を解消しよう」という、メンシェビキとよばれる漸進的改革をやっていたのです。
しかし、結局間に合わなくて、手ぬるくて十分な改革ができなかったから、農奴や労働者主体の、下からのボルシェビキが最終的に革命を主導した。

今私たちが環境対策でやろうとしているのは、今の秩序と快適な生活を維持しつつでもクラッシュしないように、少しCO2を減らそうか、というメンシェビキ的発想で、ある意味生ぬるい。

Q. 既存との両立も必要だ、と。

でも、このスピードとCO2の8%削減なんて程度なら、地球から反乱起されるかもってすごく内心恐れています。また社会保障制度も、年金が減るとか消費税増税は受け入れられない、と文句言っている間に日本の財政自体が破壊するかもしれないリスクもある。

Q. 時間的猶予はそんなにないのでしょう?

過去40年で私たちは地上の40%の生物種を絶滅させたそうだから。
地球環境が待ってくれる時間は、あまりないと思う。ほとんどないです。その緊迫感をどのくらいの人類が共有できるかが、救済のカギですね。


インタビューを終えて

河口さんとは15年以上のおつきあいになりますか、出会ったときから今まで、つねに大いなる刺激をいただいています。今回のインタビューも大変面白かったです!
「ネットでスローな暮らしが出来るのも大企業でアクセク仕事している人たちがネット環境を作ってくれているから」というところ、私もつねづね、ミクロ(個人の生き方レベル)での里山資本主義と、マクロ(社会全体)との整合性をどう考えたら良いのか、と考えていたので、まさにそのとおり!と思いました。
そして、アダム・スミス、とくに「道徳感情論」をしっかり読まなくては、と思いました。幸せ経済社会研究所の読書会で取り上げましょう。
「100年後には株式会社はなくなる」「マグロ型企業vsヒラメ型企業」「経済成長と持続可能な社会は本質的には関係ない」など、どれも数時間かけて聞きたい、考えたい、議論したい観点がてんこ盛り!のインタビューでした。マグロのように壁に激突して自滅することなく、ゆっくり考えていきたいと思います。

取材日:2015年2月24日


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