100人それぞれの「答え」

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東京都市大学 環境学部 教授

大守 隆(おおもり たかし)さん

「価値判断からの中立性を保ちつつ指標を作ろう」というのが、経済学の流れなのです

Q. 経済成長とはどういうことですか、何が成長することですか

私は内閣府でGDP統計の担当もしていましたが、GDP統計にはいろいろな問題や不備があることは事実です。そこで、統計上の不備の問題と概念の問題とをごっちゃに議論しないほうが良いと思っています。

経済成長を「現在計測・公表されている実質GDPが伸びること」とすると統計上の問題を含めて議論することになるので、そうせずに、まず概念を明確にすべきだと思います。経済成長とは「客観的な観測、特に行動に対する観測を基に推計できる幸福・満足・効用などの指標が改善すること」と整理すべきだろうと思います。

なぜ客観性にこだわるかと言うと、経済学の発展とも絡むのですが、主観的な幸福度は個人間の比較可能性や、個人内の昔との比較についても疑問が残るし、バイアスの問題もあるからです。

また、GDPの推計でもある程度は取り組んでいるのですが、家事労働や環境改善の影響など、現時点でGDPで計算していないものも除外すべきではない、という発想です。

つまり、概念は大きく2つに分かれます。1つは人々の行動の観測に基づく客観的指標で、もう1つは主観的指標です。この両方を見ながら物事を考えていく必要があるだろうということです。

経済成長というのは行動や価格を観測してつくります。主観的幸福度は、もちろん本人に聞くわけです。

GDPの背景にはリビールド・プレファランスという理論があります。これは価値判断から中立で、客観的なアプローチで人々の効用の変化をどこまで推計できるかという問題意識から構築されたものです。このような厳密な議論の中で発達してきた成果は、それなりに重要ではないかと思います。

より具体的に整理すると、幸福度や満足度を規定すると考えられる諸要因の中から特定の期間のフロー、1年なら1年のフローを中心に取ります。また社会資本ストックからのサービスなどもカウントしています。

特定の期間ですから、安定性や持続性は、明示的には勘案していません。ただ、安定性とか持続性を求めた経済活動もありますから、それがどのくらいあるかは、もちろんカウントされています。

それから、マクロ的に「総和」という観点から把握し、金銭的評価で統合して、一次元のデータにしています。格差の話を議論する際には別の指標が必要です。

現在のGDP統計というのは、客観指標の不完全な代表選手であるということだと思います 。

Q. それは望ましいものですか、それはなぜですか

主観的な幸福度指標が必ずしもあてにならない中で、客観的な指標が改善することは基本的に望ましいことだと思いますが、GDPという概念が何を捉えているかについても理解した上で解釈する必要があると思います。

リビールド・プレファランスの議論の本質はあるタイプの数量指数が改善していれば効用水準が改善しているということです。しかし、これは完全に1対1対応ではなく、前者が悪化しているからといって、効用水準が悪化しているとまではいえません。したがって下方バイアス、上方バイアスというような、様々な議論があります。今のGDP統計は基本的には指数論に立脚して作っているので、完全に効用水準と対応してはいませんが、厳密な議論の1つの到達点です。

Q. それは必要なものですか、それはなぜですか。必要な場合、いつまで、どこまで、必要でしょうか

上記のように考えると、経済成長が必要かどうかというより、「より良い生活を目指すこと」と基本的に同じなので、それを求めて当たり前だということだと思います。

今の社会にはたくさんの問題があって、それを解決して 人々の満足水準、あるいは幸福度を改善させようとするとき、「主観的に聞いてみる」のも1つのやり方ですが、多分それだけでは不十分で副作用もでてくると思います。客観的なデータでとらえる指標でモニタリングすることが必要だろうと思います。

Q. 経済成長を続けることは可能ですか、それはなぜですか

もちろん可能だと思います。環境問題も含めて、できるはずなのにできていないことが、世の中にはまだたくさん残っていると思います。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、それは何ですか、なぜ生じるのですか

さきほどのようにとらえれば、特に何も犠牲はないです。ただ、もちろん限界はあるわけで、格差の問題や持続可能性の問題は並行して別の指標でモニターしていく必要があるでしょう。

Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか

「いわゆる経済成長」で失ったものはもちろんたくさんありますが、だからといって、本来の意味の経済成長まで悪者にすることは大変危険だと思います。経済活動が国際化した時代には進歩を止めて同じことだけ繰り返す経済だと、同じ効用水準も維持できなくなります。国際競争力を失っていくからです。――ハーマン・デイリーの「定常成長」という書物にも、反成長といったニュアンスを私は感じるんですが――「今までと同じことだけする」というやり方には実は持続可能性がないと思います。あの書物は、よく読むと、比較的慎重な議論をしているなという気はしますけど、全体としてはそういう印象を持っています。

実際の経済活動の中でも、たとえば政府が公共事業の一環として緑地を整備するとか、企業が公害防止投資をすれば、GDPを増やすことになります。したがって、問題は、成長そのものではなく、経済成長の中身が人々の潜在的な要求である持続可能性を高める方向になっていないことにある。そうなるようにはどうするかということを議論すべきときに、経済成長自体を悪者にすると、誤った敵と戦っていくことになってしまうという懸念を持っています。

Q. 「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると考えますか

持続可能性の1つの受け止め方は、現在世代と将来世代との関係です。OECDで10年くらい前に議論したことがあるのですが、環境だけではなくて、良いストックをどれだけ引き継げるかとか、財政赤字は負の遺産なのかとか、社会――格差とか治安、もっと言うとソーシャル・キャピタルなどもそうかもしれませんけれども、そういう面で将来世代に良いものを引き継いでいくことだと思います。

「こういうことに対しても、GDP統計の中で何とかできないか」という議論はもちろんあって、いろいろ試行もなされているのですが、なかなか簡単ではありません。技術的に簡単ではないという点もありますが、本質的な問題があるのです。

「価値判断からの中立性を保ちつつ指標を作ろう」というのが、経済学の流れなのです。価値判断を導入して、特定の人々が考えるウエイト付けをして計算すればいいじゃないかと言えば、それは簡単にできるのですが、それをやると、その「特定の人々」向けの指数になる。

OECDが作っている幸せの指標も「最終的なウエイト付けは各人でやってください」となっています。ああいうことをやらずに、どこまで一次元の統計量が作れるかということを追究したのがGDPであって、それの伸びが経済成長と言われているということです。

それを、自分の価値観が反映されていないからといって、意味がないと主張するのは、無いものねだりだと思います。もう少し建設的な方向としては、何か共通に支持され得るような価値判断基準をどうやって見つけてきて、使っていくかということだと思います。しかし、そういうことはあまりなされていないように思います。

ただ、環境分野では、まったく部品がないわけではなくて、Contingent Valuation、仮想評価法というものがありますね。それから最近、主観的な幸福度と客観的な指標の関連の分析など、それなりに分析が進んできているので、分析を蓄積する一方で、どうやって使っていくかという枠組みを作っていく必要があるかと思います。

結論として、成長は環境の敵ではない。「持続可能な成長」という言葉が定着しているように両立は可能です。むしろ、成長していないと環境問題は解決しにくいという側面もあるということで、先生のご研究に期待しているということです。

── ありがとうございました。


(エダヒロからの追加質問にも応えていただきました!)

Q.続けて、いくつか質問させて下さい。「客観的な観測を基に推計できる幸福・満足・効用などの指標が改善すること」は、とても大事なことだと思いますが、これを「経済成長」と呼ぶのでしょうか?

基本はそうだと思います。それが指数論の最も基本的な考え方だと思います。

Q. それは結果としてそうなるということでしょうか? それともこれが経済成長ということ? 「経済」といった要素は、ここには出てこないように見えるのですが......。たとえば、これを「幸福度指数」と呼ぶなら、それはそれでわかりますが。

経済学でいう効用は幸福と同じではありませんが、かなり近い概念です。効用を客観的に計測しようとの問題意識から指数論が生まれ、発展し、今のGDPになっています。

最も基本的な発想は「バスケット」で、消費のバスケットを、たとえば5年前と比べてみる。「5年前、私はこれだけ消費していまいた。5年後、これだけ消費していました」と。その客観的な事実から、この人の効用水準は改善したと言えるかどうか。両方の時点の価格も用いて計算すると「改善したと言える場合」と「悪化したと言える場合」と「どちらとも言えない場合」の3つのうちのどれになるかが計算できます。

こうしたことをできるだけ組織的にやろうという方向でたどり着いたのが、今のGDPなわけです。消費バスケットだけでは十分ではないかもしれない。そうすると、たとえば「社会資本から発生しているサービスも入れたほうがいいよね」とか、それなりにいろいろ発展してきているわけですが、根っこは効用水準にあるわけです。人々の満足度を、本人に聞かずに、本人が消費している物と価格を観察するだけでどこまで言えるかということです。

Q. でも、たとえば、イースタリンのパラドックスのように、初期の段階は消費が幸せにつながっただろうけど、ある段階を超えると、消費することが効用を損なうとか、消費しないほうが効用が上がるということも出てくるのではないでしょうか。今の若い人たちはそうなりつつあるような気もするのですが。バスケットの考え方だと、消費の量と価格でしか測れないとすると、そのレンズ以外のものは見えないということでしょうか?

お金を払って何かを消費しているということは、その人の選択の結果であると考えるのが基本だと思います。また、消費の中にいろいろなものを入れることはまったく構わないと思います。環境だって、われわれ消費しているわけですから。どういう家に住んでいるか――これはある程度GDP統計に入っていますけれども、だんだん拡張してきているわけです。どういう公共資本のサービスを享受しているかとか、どういう行政サービスをもらっているかとか、どんどん広げていくことはできます。

──「消費」というのは、お金を使うという意味だけではなく、ということですね。

ええ。

Q. たとえば、畑仕事が楽しいという場合、お金という意味では消費しないですよね。もしくは「友だちとつるむのが楽しい」とか。それは、幸せにはつながっているけど、お財布は開いていません。そういう場合は、何か社会関係資本や自然を消費していると考えるのでしょうか?

ご指摘の点も取り込むためには、評価の問題があります。「金銭的に評価をする」ということなので、ある程度、みんなが共通して、金銭的な評価方法はこれで良いよねというところまで行かないと、取り込めないわけです。

「取り込めない」ものがあるとすれば、一番大きな理由は、価値観のところだと思います。人によって評価基準が違うものを、1つのマクロ的な指標を作るときに、取り込むべきではないというのが経済学の伝統的な考え方だと思います。

── そうすると、たとえば、客観的な観測を基に推計できる幸福の指標があるとして、でも、本当の幸福は、きっとそれだけでは測れない。客観的もしくは金銭換算できないものもありますから。

個人ごとに金銭換算する手法はある程度開発されています。問題は人によって大事なものが違うということです。

── ええ。そうすると、GDPもしくは経済成長で測れる幸福は部分的ということ?

もちろんそうです。

── そこだけを測っていることですね?

ええ。

Q. だけど、その部分的な金銭や客観性で測れるものと、その人自身の幸福がどういう関係かは、時代によっても人によっても違いますね?

違うでしょうね。

── そうすると、繰り返しになりますが、GDPとか経済成長というのは、本当の幸福というよりも、客観的で金銭換算できるところを測るということ。

今、「本当の幸福」とおっしゃいましたが、それは主観的幸福のことを指しておられるのでしょうか? そうだとすると、それは、政策判断に使えるものでしょうか?例えば、「私は貧しいから不幸だ」と主張する人が多い地域を政策的に優遇すると、皆同じことを言って優遇を受けようとするでしょう。だからこそ客観的な計測が必要で、その発想から指数論が作られました。指数論は厳密な故に限界があります。しかし、だからといって意味がないとするのは建設的でも科学的でもないと思います。むしろ、主観的幸福度指標の中でも聞き方によっては信頼度の比較的高いものもあるかも知れないので、指数論の厳密さを多少緩めてどう統合していけるかを考えるべきだと思います。厳密さを緩めることにはリスクが伴いますが、メリットと総合評価した上で科学的に議論を進めることはできると思います。

Q. バスケットの考え方で、たとえば「5年前にこれだけ買っていました。今、これだけ買っています」と比べて、「増えているので、幸せも増えているでしょう」と考えるときに、「そこには、良いものも悪いものも入っているじゃないか」というのが、GDPの批判の1つとしてありますね。GDPには幸せにつながるものも幸せにつながらないものも入っている、という批判です。それは区別してバスケットを比較するのですか? それとも単に「いくらか」ということを比較するのですか?

例えば空気清浄機は、消費者が代金以上の価値を認めているから購入しています。だからある意味で幸せにつながっているのです。もちろん、「今までお金使わなくてよかったあることにお金を使わなくてはいけなくなった」ということはあると思いますので、環境が悪化したということまで勘案した指標づくりをすることが望ましいと思います。その場合には環境悪化の経済評価が必要で、個人差の問題の処理も必要になると思います。

Q. たとえば今、家庭の機能がどんどん外部サービス化されていますよね。子育てにしても何にしても。それはバスケット的に、もしくはGDP的にはプラスになっているけれど、社会関係性資本とか、本当の幸せとかを考えたときには、もしかしたらプラスではない場合もありますよね?

そうですね。ただ、「本当の幸せ」の客観的な定義をする努力をせずに、「本当の幸せとは違う」という議論をすることは生産的ではないと思います。

Q. だけど、金銭客観性で測ると、そこはわからない?

まず、基本的な発想は、「それに人々がお金を出して、それを求めているということは、そこに何か値打ちがある」というものでしょうね。ただ、昔はなかったサービスがありますから、これはなかなか難しくて。

リビールド・プレファランスの理論というのはすごく単純で、「5年前のバスケットが、今のバスケットに払っているお金で買えたかどうか」だけを見ているんですね。買えたとすれば、5年前のバスケットを買わずに今のバスケットを買っているんだから、それは良くなったでしょうと、はっきり言えますよね、と。突き詰めるとそれだけの話です。

だけど、5年前には買えなかったもの、5年前にあったものを買わずに今のものを買っているから良くなったというのはそうなのですが、状況の変化があって、買わざるを得なくなったものがあるとしたら、そういう話は、基本的に含まれていないですね。それをどううまく反映させるかは難しい問題です。

──「経済成長は行動や価格の観測です。客観的な観測を基にしているので、何を買ったとか、いくら払ったとか、それは観測できます。そして、観測された消費の部分と、幸福満足には関連があります」ということなのですね。理論的にそうだ、ということですね。

そうです。「観測されたものだけから、どうやって満足度が高まったかどうかを推計できるか」という議論の延長線上にあるわけです。なぜ、そのように自らを制約しているかと言うと、「そういうものでないと、実は信頼できないのではないか」という発想があるからです。

Q. 乱暴な言い方になりますが、「客観的で測定できるもので、実は主観的で測定できない幸福を推定する」ということ.........?

人々に主観的な幸福度を尋ねると一応答えは得られますから、計測はしたことになるのですが、そこにバイアスがあるかもしれないとか、個人間の比較はどうするとか、いろいろな議論の結果、経済学は「そういうものは使わずに、客観的なものだけに準拠しよう」と考えたのです。そしてある段階では、そういうもの使わなくてもかなりのことが言えるんじゃないか、という気運がありました。それは私はかなり幻想ではないかと思いますので、前述のような統合が必要だと考えています。

Q. そういう意味で言うと、もともと「幸せ」ってすごく主観的だし、比較できないし、測定できないものですよね? 人間の心が測定できないように。それを、客観的で測定できるものでつながりをつくろうということ自体が、かなり難しいというか......。

多分、両方必要なんでしょうね。行動や価格の観測に基づいて、できるだけ接近してみる。主観的なものに頼らずに、どこまで接近できるかという努力と、それだけでは不十分なので、バイアスや解釈には注意が必要だけど、主観的な幸福度みたいなものも重視しなくてはいけない、ということだと思います。GDP統計を所管する内閣府の経済社会総合研究所で、私が提唱して、幸福についての研究を一つの柱として立ち上げたのは、こうした問題意識があったからです。

──特にマクロで考えれば、これからの経済のある部分は、お金を介さない新しい形の自給自足になったり、地域通貨を介すものになったりしていくかもしれない。そうなった場合、客観的に計測されているものは減っていくけれど、それは別に人々の幸せの低下ではなくて、もしかしたら向上になっているかもしれない、ということもあり得るんですよね。

そうでしょうね。

── でも、それは今のこういう形のGDPやその概念には入らない。

でも、それなりに努力しているんですね。帰属計算とかやって。たとえば、持ち家からもサービスが発生していることにして、質の違いも勘案して計算しましょう、とか。実際にお金が出ているのは借家だけですけど、借家だけではないよねとか、そのように延長線上でカバーできるようなものもかなりあると思います。

──ええ、GPIみたいに、家事や育児などを金銭換算して足し合わせるという計算はあるでしょうけど。たとえば、前だったらどこかに行って買い物していたけど、そうじゃなくて自分で作ったり、おすそ分けでもらったり、シェアしたりする。そうすると、マクロでの測られる消費は減る。つまり、GDPは減る。

どうですかね。それはとらえ方によると思います。たとえば、洗濯ものを取り替えっこしたり、あるいは、洗濯ものはこっちでやって、育児はこっちでやるとか分担したりする。そこにお金の取引が発生すれば、両方とも消費と所得が増えるわけですね。実際にはお金の取引がなくて物物交換であるとしても、それをあたかもお金の取引があったように推計することはできますね。

Q. 「金銭で換算する」というのが定石なのですよね。

建前はそうです。でも、市場で評価されたものだけしかやっていないかと言うと、そうではなくて、それに類似したような手法を使いながら、だんだん広げてきているということです。 

ただ、人によって価値評価が分かれるようなものはなかなかできないし、やるべきではないんじゃないか、という制約にぶつかるということだと思います

── このプロジェクトでたくさんの方にお話をお聞きして思うのは、「成長」という言葉にはとてもよいイメージがあるということです。「人の成長」とか「心の成長」とかね。でも、「経済成長」と言っているのは、「GDPが増える」ということですから、「成長」という言葉ではなく、「経済拡大」のように、単に「量的に増える」ということを示す言葉を使ったほうがよいのではないか、と思っています。「成長」と言うと、質的な良きもののイメージがあって、経済成長に疑問を呈するのがとても難しいなと思うことがあって。経済の規模が大きくなることだけを言っているのだったら、「規模が大きくなることはプラスかマイナスか」という話ができるのですが。

それは誤解だと思います。質の改善も成長なのです。たとえばパソコンの質をとっても、昔と同じように十数万円のものが、どんどん良くなっていますよね。これは経済成長のかなり大きな要因です。製品の質のいいものが、同じ値段あるいは安く買えるようになるからこそ、名目GDPはほとんど横ばいないし若干マイナスなのに、日本は実質成長しているわけです。だから、今や日本では、どちらからというと、質的な成長というのが中心になっているわけです。

実際に、少し前まではテレビなど、ものすごく価格が下落していました。実質GDPを計算するときは、デフレーターというのを使って割り戻すと、実質GDPはかなり伸びている要因になります。パソコンとかテレビとか、ほかにもありますが、技術革新によって良くなっているものが成長を押し上げている。

人々の価値観が変わって、量的な成長というのは、GDP統計から見ても日本ではあまり重要ではなくなっていると思います。  

Q. 「新しい価値を見いだしてお金を使う。それが質的な成長だ」と。それはそうだと思うのですが、これからは、「新しい価値を見いだしたから、お金を使わない」という人が増えてくるとしたら、それでも成長になるんですか?

お金を使わない?

──たとえば、20代の首都圏の若者が4年前に持っていた持ち物の所持率と、今の所有率のデータを見ると、スキー用品とか車とか、自分用の部屋とかブランド品とか、十数%という割合で減っています。買っていないんですね。「買わない、欲しがらない若者」とよく言われていますが、その人たちが不幸になっているわけではなくて、お金を使わない幸せなあり方を見つけているのかもしれない。

その解釈については、私は疑問があります。雇用不安とか、非正規雇用とか、所得も実際には減っているでしょう。また通信に使うお金も増えていると思います。

若い女性や子供の貧困が大きな問題になっている日本で、「新しい価値を見いだしたから、お金を使わない」と言える余裕のある人は少ないと私は思います。良い経済成長を通じて解決すべき課題はたくさん残っていると思います。

── お金があれば使っていたのに使えない、確かにそういう面もありますね。

その解釈のほうがメインであるべきだと思います。ただ、安くなったから名目的な消費額が減っているということは十分あると思います。

── お金があっても使わない、使わないほうが幸せだというライフスタイルは、今はあまり計測の対象にはならない......。 

それは、主観的な手法の守備範囲に入るんでしょうね。客観的な指標で、そういうのをどうやってとらえるか?というのもやってできないことはないと思いますが。余暇活動みたいなものについて、ある程度みんなが納得するような評価基準を与えることで、守備範囲を広げていくということはできると思います。

Q. たとえば、アメリカでは1,200万人がダウンシフターズだといわれています。降りていく生き方をするそういう人たちは、意図的にお給料を減らして、自分や家族との時間を増やすという選択をする。お給料が減ったわけだから当然、消費できるものは減ります。だけど、そのおかげで、自分の時間や家族との時間が持てて幸せだと言う。そういう生き方はGDP的にはマイナスになっているのですよね?

そういう行動についてはそうだと思います。

──だけど、幸せ的にはマイナスではない。

その限りではそうだと思いますが、米国では貧富の格差が急速に拡大しています。住宅ローンを払えずに家を失った人、病気になっても医療費がない人などが増えています。米国の人々の幸福度を議論するなら、全体像をみる必要があると思います。

自由時間の評価などの「本当の幸せ」への客観的なアプローチをおろそかにしたままで、所得の重要性を否定すると「あの人たちは所得は減っても、幸せになっているからいいんだ」といった議論に悪用される恐れもあると思います。


インタビューを終えて

東京都市大学の環境学部でご一緒させていただいている大守先生は、大学卒業後経済企画庁(現内閣府)に入庁し、OECD代表部などに出向後、国際経済、計量分析、経済白書等の担当課長を歴任され、GDP統計改善などのお仕事もなさっていたという、このテーマの「ど真ん中」にいらした方です。お話をうかがうことができて、とても勉強になりました。

経済の専門家ではないこともあり、現時点で私が理解できたと思えるのはほんの一部ですが、GDPが価値から中立で客観的な指標として構築されたことはよくわかりました。それがゆえの長所と短所があるということも。

 「問題は、成長そのものではなく、成長の中味ではないか」というご意見に対して、「たとえ、"良い"経済成長だとしても、それによってスループットが増大して、地球の扶養力を超えてしまうとしたら、"良い"から良い、とは言えなくなるのではないか」という疑問が浮かんでいます。ほかにも、いっぱい「?」が渦巻いているので、またどこかでお話をうかがえる機会があれば(私がもっと勉強してからですが!)と願っています。ありがとうございました。

取材日:2015年5月13日


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