100人それぞれの「答え」
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東京都市大教授、国際グリーン購入ネットワーク(IGPN) 会長
中原 秀樹(なかはら ひでき)さん
私たちが経済成長で失ったものは、透明性などの市民社会の基本です
- Q. 経済成長とはどういうことでしょうか。何が成長することなのでしょうか。
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難しい問題だね。経済成長を、お金の多寡で測るのか。それとも経済の最終目的が何のためにあるのかということを考えるのか。そうでないと、まさにハーマン・デイリーなどが言う「定常経済」でなくなった時に、われわれは息切れしてしまう。
経済成長をGDPで測ることが最終目的だとすると、そこには生活の質の保証があるかを検討しなければならない。しかも、GDPの成長理論に入っていくと、その結果として、自然や文化といったものがまったく無視された形で19世紀、20世紀に環境破壊やさまざまな社会問題を起こしてきた。ある意味、ちょうど今、見直しをするいい時期だろうと思います。
「何が成長することなのか」という問いに関して言えば、それは、経済成長のモノサシによって全く変わってくるだろうと思います。
- Q. 1つはお金の多寡で測るということ。
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いわゆるGDPですね。例えばグローバルな貿易自由化は、製品価格の引き下げその他もろもろの利益をもたらしてくれるが、短期的な経済的利益を得るために支払われた社会や環境のコストは無視されているということです。事実経済成長は多くの場合失業を伴うし、成長の恩恵は社会全体に均等には配分されないからです。
- Q. もう1つは、経済のそもそもの目的を考えるということ。
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そうですね。経済の目的と言うと、非常に抽象論的な形があると思うのですが、そもそも経済的な豊かさにはどんな価値があるかということを考えることが必要でしょう。池上先生の文化経済学的な形であるとかラスキンの「生活の中の中の美」、もしくはシューマッハーが主張している適正規模の中で経済を営むという仏教経済学的な考え方があるだろうと思います。
拡大する大きなメガシティを目指す形ではなくて、エネルギーをなるべく使わずに、しかも地域の特性を活かしながら定常経済に持っていくというシステムをうまく使えば、成長というよりも、まさに持続可能な経済をつくることができるだろうと思います。
実は、日本には、江戸時代にそれをちゃんと体験しているという、面白い実証実験の例があります。17世紀の江戸は世界でも指折りのメガシティであったということから考えれば、日本という国は非常に参考になる経験をしているのだろうと思います。
- Q. 経済成長は望ましいものですか?
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それは、誰にとって、何にとって望ましいのか、ということですよね。先ほど文化経済学と言いましたが、人間の福祉もしくは幸福・幸せ、さらには生活の質や自分が生きている価値、ライフバリューみたいなものが自覚できる社会であるならば、それは大変素晴らしい。
「自覚できる社会」の定義が必要だと思いますが、その時にはやはり、共同体、コミュニティというものがしっかり根付いているような社会。それが、私が望む経済社会です。
- Q. 経済成長が必要でしょうか。
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資源消費と連動した経済成長は、はっきり言えば、もうやめなければいけない。従来型の資源集約型の経済成長はやめないと持たない。
IPCCの第5次評価報告書では、その原因が人間の営む経済活動だということが明確になっているわけですから、ロジックからすれば、経済成長はいらない。むしろやめなきゃいけないという考え方です。
われわれが持続可能な社会をつくっていく最終目的は何なのか。次の世代に、もしくはそれ以降の将来世代に対して、環境負荷をもたらすようなことをしてはいけない、という責任があるわけです。
- Q. 次の問いにも重なりますが、必要ではないし、可能でもないということですね。
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はい。
- Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲があるとしたら、どのようなものでしょう。
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一番大きいのは、情報化社会のデメリットです。先ほど、コミュニティなり共同体という必要最小限の単位の重要性について話しましたが、情報化社会の中では、そういう単位を超えて情報が飛び交います。
ですから、情報化社会のメリットとデメリットをよく見ておかないといけない。知識は、スマホやPCの中にどんどん入ってくるわけです。でも、生きていく上の知恵や、どう生きるべきなのかという価値観は、いわゆるコンピュータ情報は教えてくれないんですね。それは、共同体やあらゆる世代の関係性の中で育まれるものです。もしくは、自分が幸せであるかの価値観もそうだと思います。それは決して、バーチャルな世界から与えられるものではない。
そういうものが犠牲になっているということを自覚しておかないと、落とし穴に陥るということだと思います。
具体的には、どういう現象が私たちの今の社会の中で起きているのか。一番身近なところで言えば、夫婦間のコミュニケーション。時間消費とともに、1日24時間しかないにもかかわらず、メールでつながれば「つながっている」と思っている。
そういうズレが、夫婦だけでなくて、家族の中で生じている。家族の団らんの中で、それぞれ携帯を見ながら、あたかも顔を突き合わせてにっこり笑っていれば家族の形態を取っている、という錯覚に陥っている。
先ほど言い忘れたことですが、経済の中に「時間消費」というコンセプトが完全に抜けているんですね。時間消費の問題については、ミヒャエル・エンデが『モモ』の中で「時間どろぼう」として言っています。
近代経済を支えてきたさまざまな家電製品は、本来、時間を与えてくれるものだったんですね。家事労働や移動などの面において。それがいつの間にか、時間の奴隷になってしまっている。私たちは、浮いた時間を必要な人とコミュニケートする時間に使わなかった、という大失敗を犯しているんですね。時間の効率的使用のほうに動いてしまった。
しかし、人間の関係性や、そういう知識・知恵の伝達というのは、時間の効率性からは生まれない。そういう大切な部分を見失う結果になってしまった。
だから私たちは「より速く」と求める。コンピュータ1つを取ってみても、すぐ反応することが望ましいし、遠くに行くためにはより速く、リニアカーで行きたくなるということです。
その時、各駅停車で触れられる町の良さであるとか、その人たちがつくってきた文化という大事なものを忘れてはいないだろうか、ということだと思います。それがオポチュニティ・コストとして存在していると思います。
- Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか。
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これまで世界に通用してきた日本のものの考え方の中に、「安心・安全」という1つのファクターがありましたね。夜でも安心して歩ける。そして、「日本製品だったら」という安全に対する信頼性があった。
そういう意味で、私たちの喫急の課題として、本当は、私たちの生活を支えるエネルギー源としての福島の問題があったはずです。
私たちは、3月11日を契機にリセットボタンを押したはずです。にもかかわらず再稼動の大合唱。そして、安全性に対する不信感の中で、私たちはまた失敗をしている。福島の人たちに対して、われわれは極めて侮辱的な態度を取っているわけで、かつて戦争で被曝を経験し、地震で福島を経験した私たち日本人がやることではないと思います。
そういう意味で、私たちが経済成長で失ったものは、そういう透明性、transparency。そして、秘密保護法に代表される、「由らしむべし 知らしむべからず」という昔の官僚主義のような、いわゆるディスクロージャーという問題。それはまさに市民社会の基本です。
日本に市民社会があったかどうかについては、いろいろ議論があるけれども、少なくても風通しは良かったはずです。それが今や完全に失われつつあると思います。
- Q. 経済成長すると、透明性や市民社社会、風通しの良さが失われるというのは、どういうつながりですか。
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日本の経済成長の中で、拝金主義とは言わないけれども、GDPを稼ぐために、そういうものが二の次になってきたという結果です。さらにあらゆるものに値段が付けられ、値段が付けられないものは往々にして軽視されます。空気がきれいなこと、きれいな川や海、通りや後援の安全性、そして共同体精神等です。オポチュニティ・コストとして、より効率とより経済性を考えると、「とにかく売るほうが先だ」ということで、安全が無視されることになる。
では、安心を担保するために少し法律を変えましょう、となる。たとえば、原産国表示は、ちょいと1、2カ月ここに置いておけば日本製になるぞという、代表的な表示偽装ですよね。
今、日本の国内で表示偽装は当たり前なわけです。かつての日本の表示偽装は、「がんもどき」とか「かにかまぼこ」とか、ユーモアを持って考えられていたのが、今はそれがまっとうなビジネスの世界の中で行われていることの不信感ですね。透明性を失っているという。
ホテルで言えばオークラから町の小さなレストランに至るまでメニュー偽装し、大手のメーカーであった雪印やなだ万の偽装事件――そういうものが、ありとあらゆる所に、こんなに蔓延している。改めて、日本の国って、そうじゃなかったはずなのに、というところがある。
- Q. 最後の問いですが、「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどう考えられていますか?
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経済成長のモノサシを、「GDP」という尺度を外して、「資源生産性」であるとか、「エネルギーの効率」の中で、「少なくていいよ」というモノサシに替えれば――「自然資本」という考え方ですけれども、私たちがきちんと評価軸を変えて、なるべく自然資本の消費量が少なくなるような評価軸を「これが経済成長だ」と考えればよいだろうと思います。
もしくは公共資本――教育の質や、高齢者の施設などは、個人消費ではなく、私は「公共消費」と言っているのですが――、そこを充実させれば、それぞれがお金を稼いで必死になってやらなくても、お金に頼らずに十分生活ができるはずです。
そういう社会をつくっていく。そういう意味での新しい市民社会の創造を考えていけば、日本は変わるし、そういう経済の尺度を持つべきだと思います。
ところが、GDPなどの中には、教育の質であるとか、福祉に対するシステムであるとか、そういうものはまったく入っていないですね。そういう社会健康指数のようなインジケーターというものを入れるといいと思います。
インタビューを終えて
中原先生は「持続可能な消費」などの分野の専門家のおひとりです。日本のグリーン購入ネットワークや、そこから発展した国際グリーン購入ネットワークの仕事を通じてのご経験からの「私たちは、経済成長によって透明性といった市民社会の基本を失った」という指摘にはドキっとさせられます。
経済活動は、生産者だけでなく、消費者がいてこそ成り立つわけで、そういう意味でも、消費者への働きかけや消費者からの働きかけの重要性を感じます。
取材日:2014年11月18日
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