100人それぞれの「答え」

写真:山本 良一さん

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東京大学名誉教授、東京都市大学教授

山本 良一(やまもと りょういち)さん

技術が、資源やエネルギー、汚染、環境問題を解決することは、あり得ない

事前にもらった質問を見ての感想ですが、「経済成長」がマジックワードというか、「経済成長」と言われるとみんな黙ってしまうというくらいの言葉になっているのが最大の問題ですね。「経済成長」は、単なる1つの経済的な学術用語にすぎない、あらゆるものを超えた価値のあるようなものではない、ということが忘れられているのが最大の問題だと思います。

Q. 経済成長とはどういうことですか

私の理解では、国民総生産や平均賃金、雇用率、とりわけ鉱工業生産指数という日本経済新聞に毎日のように載っているものがありますが、そういった指数が上がっていくことが経済成長です。

「それが増加することがよいことだ」という、とんでもない誤解があると思います。経済成長とは、マテリアルフローが増大することを意味しているのです。鉱工業生産指数が上がるということは、マテリアルフローが増大するわけです。われわれは4種類の物質で年間500億トンくらいの資源を使っています。膨大な環境負荷が発生しているわけですが、それがまったく忘れられているところが問題だと思います。

Q. それは望ましいものですか

社会発展の基盤をつくる上においては、経済成長はなくてはならないものです。しかし、「いつやめるか、いつ安定させるか」という議論なしに、経済成長だけを議論しているのが最大の問題だと思います。経済成長を始めたら、当然、経済成長を落ち着かせるところを考えなくてはいけない。

もっと深い話をすれば、いちばん基盤のところには、二宮尊徳の思想があると思います。私が感じている二宮尊徳の思想では、「手付かずの自然」をあまり評価しません。手付かずの自然は、人間がなまけているせいだと考えるわけです。

要するに、「われわれが自然に手を加えて、社会が発展する」という考え方ですが、そこでのバランス、調和が必要です。社会発展の基盤としては、自然に働き掛けて、マテリアルフローをある程度増加させて、経済成長が必要であることは、その通りです。それがあまりにも行きすぎている、歯止めなしでやっているというところが最大の問題だと思います。

Q. 経済成長は望ましいけれど、歯止めなく行きすぎているのが問題だということですね

そうです。今、経済成長を根本的に見直さなければいけないところに差し掛かっています。今までの経済成長の議論は、世界の「地域」や「国」単位で行われてきましたが、この15年間、世界での議論は、「人類総体」としての経済成長やマテリアルフローの増大はどこまで可能か、どこまででやめるべきかという議論です。

1800年頃、産業革命とともに、人類は地球の表面を支配し始め、1950年以降、第2ステージに突入し、先進国が猛烈な勢いで経済成長しました。21世紀に入って、新興国が経済成長を始め、今は第3ステージを迎えています。

「第4ステージはない」と言われています。つまり、第4ステージは、人類文明が地球の限界に激突して、地球生命圏を巻き添えに崩壊するか、あるいは、われわれが地球生命圏と共存共栄できるようなエコ文明に転換できるか、の瀬戸際に来ているという認識です。

現在の地質年代名を、ホロシン(完新世)から、アントロポセン(人間世)という名前に変えてしまおう、地質年代名を変えることによって、プラネタリー・スチュワードシップ、つまりこの惑星の管理・経営責任を明確にしよう、というのが欧米の知識人の今の考え方です。

ですから、経済成長の話でいうと、今すでに先進国は全体で定常経済にしないといけないし、新興国や途上国も、あと10~20年くらいで、同じように定常経済に移らざるを得ないところまで来ていると思います。それは、温暖化の目標である気候ターゲット「2℃」が、あと20~30年で突破されてしまうという状況だからです。

Q. 経済成長を続けることは可能ではない、というところまで来ているということですね

今の文明のあり方、すなわち工業文明で経済成長をこのまま持続していくことは自殺行為であり、必ず破たんしてしまいます。地球温暖化の問題にしても、温度上昇を2℃未満に抑えるためには、累積のCO2排出量を800ギガトン炭素くらいに抑えないといけない。それ以上は放出できないということで、限界があるのです。

資源の問題についても、今のままでいけば、あと40年くらいで、主要な金属の良質な鉱石は全部枯渇します。そういう意味から言っても限界ですし、生物多様性の喪失から言っても、われわれのライフ・サポート・システムが維持できないだろうと思います。

そういう意味では、工業文明のままで経済成長を続けることは不可能であり、やってはいけないことです。

問題は、「エコ文明に転換したときに、経済成長はあり得るのか?」つまり、マテリアルフローの増大を伴わない経済成長はあり得るか?という話です。これはわかりません。かなり多くの可能性があると思いますが。

現在の自由主義市場経済の最大の問題は、貨幣はいくらでも自由に無限に発行されるけど、われわれの環境や資源は有限だということです。両者がリンクしているところが問題なのです。

それを避けるためには、二重の貨幣をつくる必要があります。輪転機を回せば無限に印刷できる紙幣と、それを金に交換できる貨幣を分けることです。しかし、この考えは、経済学者からはまったく支持されません。市場経済では単一貨幣でないとダメだと言うのです。

そうなると、完全に禁止する処置を取るか、あるいは税金か、という話になります。税金を使うなら、環境税や材料税をかけないといけない。例えば、金は貴重ですから、金の指輪などには、天文学的な課税をしないといけない。今のわれわれの文明には、それができていません。

Q. 「経済成長は社会発展の基盤のために必要」ということでしたが、社会発展の基盤ができたかどうか、これでもう成長しなくてもいいのか、というのは、どうやって見極めたらよいのでしょうか?

それは文化によって変わりますから、たとえば欧米の水準を持ってくるべきではないと思います。たとえば、チベットならチベットの長年の伝統文化があります。その伝統文化における標準的な生活水準まで達すれば、経済成長は十分だということです。

アメリカ的な生活スタイルを単一の基準として、その水準までは全世界の経済成長を認めることは、まったく不可能な話だと思います。

Q. 「経済成長はどこまで行けばよいかという議論がなくて、行きすぎているのが問題」とおっしゃいましたが、なぜ、そういう議論がないのでしょうか?

経済成長を考えるのでも、世界全体での経済成長を考えないと、地球の限界の議論になりません。今の経済成長の議論は、各国レベルでの議論だから、地球の限界を考えない議論をやっているわけです。

per capita(人口ひとりあたり)で考えれば、それができると思います。中国は13億人だから、70億分の13億と考えれば、自分の国の割当量がわかる。世界市民1人当たりの利用可能な環境容量や資源を考えていかざるを得ないと思います。

Q. そういう議論はありますか

あります。

Q. それは国際的な枠組みになっていきそうですか

おそらくCO2については、そういう議論がもっと進むと思います。

Q. 別の観点の質問ですが、「心配しなくても技術が解決してくれるから大丈夫。経済成長しても、技術の力でデカップリングすればいい」と言う人がたくさんいます。技術の力で、経済成長の限界の問題を解決する可能性についてはどう思われますか?

結論から言うと、技術が最終的に、われわれの資源やエネルギー、汚染、環境問題を根本的に心配がないように解決することは、あり得ないことです。

いろいろな表現の仕方がありますが、その1つは、「技術的な解決は、ある問題を別の問題に移し替えているだけだ」という、非常に説得力のある議論です。

全国日本学士会の『ACADEMIA』6月号は「エネルギー、倫理と経済」という特集号で、私を含め4人が書いています。京都大学の新宮秀夫先生が、熱力学の考えと経済学の考えをパラレルに議論していて、「技術でのエネルギー問題の解決はあり得ない」と断じておられます。

たしかに、科学技術の発展によって、太陽光発電衛星なども実現するとは思いますが、今のままの使い捨て経済で、人口がどんどん増えていき、100億や120億の人口を支えられるかというと、とうてい不可能だろうと思います。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲があるとしたら、どのようなものでしょうか?

今のままの経済成長では、自然は枯渇し、環境は汚染し、生物が絶滅に追いやられ、地域的・文化的な多様性はどんどん減って画一化し、伝統文化・精神文化が失われていきます。

Q. なぜそうなってきたのでしょうか?

マルクスによる古典的な批判がありますが、今の経済のシステムがそうなっているのです。これまでに、農業革命が起こり、都市革命が起こり、精神革命が起こり、科学革命が起こり、産業革命が起こって、いま環境革命だと言っているわけですね。

今までの革命は、「環境による制約」「社会制約」からの解放でした。私が学生のころ読んだ羽仁五郎の『都市の論理』に、「都市の空気は人間を自由にする」という有名な文句があります。農村共同体から人間が解き放たれて、都市にやってきた。都市でセキュリティも確保され、ちゃんとした職業にありつけば、農村共同体のしがらみからも解放されます。

その延長上に、近代の資本主義市場経済があるわけです。資本主義市場経済は根本的に矛盾を抱えています。われわれが狩猟経済をやっていた時は、明日の食べ物にも恐怖心がある。敵に襲われるかもしれない。食料がないかもしれない。天候が急変するかもしれない。いろいろなリスクにさらされていたのですが、人類文明の発展とともに、リスクがどんどん軽減され、今、巨大な都市では、仕事もあって、たくさんの食料が供給され、電気もすべてあります。

そこでの最大の問題は、「見えなくなっている」ということです。人類は、都市に住んで、生活をエンジョイして、リスクも軽減されていますが、自然の制約からは全然自由になっていません。全部、外に押しつけている、環境負荷を外部に移転しているだけなのです。都市に住んでいる住民は自由を謳歌していますが、地球生命圏全体で考えると、人類は自然の制約から自由になっていない。科学技術がこれだけ進歩してもそうです。

その結果、結局何が起きているかと言うと、環境を破壊して、気候が変動して、自然資本の損耗が著しいわけです。この状態を続けていくと将来どうなるかと言うと、「地球の表面を捨てる」という話になります。

地下に住むか、海面下に居住空間を定めれば、全天候型で、雨も雹も降りません。その代わり、地球の表面は大嵐、金星のような状況になります。われわれはそういうのを望むのでしょうか。

すべて技術ユートピア主義で、先ほど言った農村共同体やしがらみ、自然の制約、社会の制約からの解放を追求していくという未来像は、勘弁してほしいと思います。たとえば、温暖化対策として、成層圏にエアゾールを注入して寒冷化させるという考え方があります。都市空間を全天候下で機能するように設計しておけば、1時間に100ミリもの雨が降っても、都市は何ともないでしょう。しかし、それが本当に人類にとってよいことなのでしょうか。

もうひとつ、経済成長で何が失われたか、犠牲になっているかという話には、非常に重要な問題があります。

さきほどは、資源枯渇や環境破壊、汚染、自然資本の損耗など、外側の犠牲の話をしましたが、実は、われわれ人間の精神の内部が破壊されているのです。その問題が非常に大きいと思っています。われわれの心の中に自然がある。環境がある。これは仏教の唯識論で詳細に議論している点です。

本来、われわれも生物種の1つであり、進化によってここまで来ているわけです。外側の自然環境と調和するように、われわれの心の内面も発展してきているはずです。それなのに、われわれは独自の文明を持ち、自然の進化の道筋から外れて、「人間圏」をつくり出すことによって、進化によって内面にプログラムされてきたさまざまな心の働きや感性が、破壊されたり、使わなくてもよいという状況になっています。それが原因で、多くの病気や犯罪などの心理学的な問題が出ているのではないかと考えています。

Q. 悪循環ですね。外の自然が破壊されて、内面も破壊されている。内面が破壊されているから、外の破壊もわからない、もしくはどうでもよくなって、ますます破壊する......。介入できるとしたら、変えていけるとしたら、どこから変えていけるのでしょうか

枝廣さんたちが前からやっているような、システム的な解決しかありません。

Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものは何でしょうか?

第一に失ったものは、景観でしょう。幕末・明治の初期には、海外から来た外国人たちが「日本は素晴らしい国」だと言っていたのに、日本列島改造をやって、景観を失い、本当に醜い日本になってしまいました。アレックス・カーさんも書いています。

それから、地域社会を失いました。残っている所もありますが、地域社会の絆を失っています。伝統・精神文化を失っている。それが大きいのではないでしょうか。

Q. 日本人は、景観が失われたこと・失われつつあることに、何も感じていないように思われますが、どうなのでしょうか

梅原猛さんなどが、「縄文文明は世界の範になる」というようなことをよく言います。「キリスト教や西洋の文明は自然破壊的で、わが東洋文明は自然調和的だ」と。しかし、その日本こそが最大の景観破壊・自然破壊をやっているのはどう説明するのか?

それに対する梅原猛の説は、「日本人にとっては、自然というのは母なるもの。無限に甘えられるものだと考えていたところに、自然収奪を許容するキリスト教や西洋文明が入ってきたために、無限に甘えてよい母親を無限に収奪するという方向に行き、ブレーキが利かなかった」というものです。

Q. 最後に、「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうでしょうか?

持続可能な幸せな社会をつくるには、社会インフラ整備をする必要がありますから、一時期は経済成長しないといけない。しかし、どこかでやめる必要があります。やめるには、哲学や宗教が必要です。そこで私は「エコロジー宗教」が必要だと思っているのです。

15年くらい前に、2つのサステナブル・ディベロプメント・パス(持続可能な開発の道)があるという話がありました。先進国は、脱炭素化・脱物質化、サービス経済を進めています。途上国は、アメリカと同じような状況を目指すのか、それとも、リープフロッグして(ぴょんと飛び越えて)真っすぐに持続可能なところを目指すのか、という話です。

その時、「それは可能か」と思いました。中国の有名な話に、「邯鄲一炊の夢」というのがあります。都会に大成功を夢見る青年がやってくる。あばら屋で人がかゆを炊いている、その炉端で、その青年は寝てしまいます。寝ている間に、彼は立身出世して、栄耀栄華を極める。ところが、とんでもない事件に遭遇して、一切の職を失ってしまう。その時ハッと目が覚めるんです。そうすると、まだおかゆが炊きあがっていない、一瞬の間だったという話です。

そうすると、かゆを炊いていた仙人が、「人生がよくわかったか。今から都に行くんじゃなくて、田舎へ帰って田んぼを耕しなさい」と教えを受け、彼は故郷に帰ります。これが「邯鄲一炊の夢」です。芥川龍之介の『杜子春』も同じような話ですね。

途上国について言えば、アメリカのような状況に進んで破たんする、ということを経験せずに、いかに自分たちの状況をサステナブルにすることで満足できるか、です。Material Wealth(物質的な豊かさ)を経験せずに、サステナブルなライフスタイルを選び取れるかという問題なのです。それには、哲学というのか、宗教というのか、倫理が必要です。賢明にならないといけないのです。

私はよく「幸運な宇宙、奇跡的な地球」と言いますが、それをいかに「見える化」することで、エコロジカルな改心をして、Material Wealthではなくてサステナブル・ライフスタイルを選んでもらうか。そこにわれわれの将来がかかっているのではないかと思っています。


インタビューを終えて

環境問題、サステナビリティへの取り組みの最前線を走り続け、企業や産業界を叱咤激励して動かし続けていらっしゃる山本先生ならではのお話をいろいろうかがえて、本当に勉強になりました。いつも先生の膨大な勉強量とその成果を縦横無尽に使いこなすすごさに圧倒されます。特に「心の内面の破壊」「技術では解決できない」などのお話が心に残りました。私も考え続けたいと思います。

取材日:2014年7月16日


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