100人それぞれの「答え」

写真:内山 節さん

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哲学者

内山 節(うちやま たかし)さん

それが正しいかどうかに関わりなく、資本主義という仕組みは経済成長を必要とするのです

Q. 経済成長とはどういうことでしょうか

経済成長というのは、単純にGDPが増えることであって、それ以外の定義はないと思います。

いろいろな人たちが感じている「豊かさ」などとは、どこか接点があるような、無縁なような......。

戦後の日本のように、敗戦後の混乱から出発すれば、経済成長によって、まずおなかがいっぱいになって、次にいろいろなものが買えて、そこに豊かさを感じるということが、ある局面ではあり得ます。戦後は、敗戦で社会的基盤が崩壊しているわけですから、ある程度安定するところへ持っていかないといけない。それは、数字的に見ればGDPの増大ですが、「社会の再建」とでも言うべきことでしょう。でも、それを通り過ぎてしまえば、「経済成長」と「豊かさ」は本当につながっているのかなと思います。

Q. 経済成長は望ましいものでしょうか

資本主義という仕組みは、それを放棄できないと思ったほうがよいと思っています。なぜなら、資本主義とは、市場で絶えず競争していく経済の仕組みだからです。

市場で勝っていくためには、絶えざる価格の引き下げが必要です。もちろん、新しいモノをつくって、高価格で独占的に供給するということは、一時的に起きますが、それは続きません。付加価値を付けたとしても、それもまた価格を引き下げていくことによって勝ち抜いていくという仕組みなのです。

そうすると、「GDP」というパイが増えない場合、企業内では価格を下げるために、合理化が進み、人が余ります。失業者が増える、賃金が下がるということでもあります。

これは、放っておくと資本主義にとって命取りになります。1つには、社会的な安定がなくなるという点で、もう1つには、失業者や低賃金者が増えると購買力が減るため、自分の市場を縮小させるという点で、命取りになるのです。

ですから、絶えざる合理化やコストダウンを図り、競争に打ち勝ちながら、なおかつ、社会をうまく回そうとすると、GDPは絶えず増え続ける必要があります。そこで雇用を生むなどしていかないと、資本主義は自滅しますから。ですから、それが正しいかどうかに関わりなく、資本主義という仕組みは経済成長を必要とするのです。

Q. その場合、経済成長は、いつまで、どこまで、必要なのでしょうか? 永遠でしょうか?

資本主義とは、「永遠の経済発展を目指す」メカニズムで行かざるを得ない仕組みになっています。当然、そこからいろいろなひずみが出てきますが、それらをすべて無視していくということにならざるを得ません。

イギリスの産業革命期からあった議論ですが、「資本主義が永遠に発展していくとすると、その条件として、自然が無限でなければならない」。たとえば、鉄をつくるにしても何をするにしても、資源は全部自然の提供物ですから、GDPの拡大を保証できるだけ、常に自然がなければならないということになります。

誰が考えても、「自然は無限にはない」ことはわかります。ただ、産業革命期から今までの歴史を見ると、無限にあるかのごとく、時代が経過していったのですね。

たとえば、産業革命期は、石炭が中心でした。その後、石油に移ってきます。石油もはじめは陸上の浅い所でしか採れなかったのが、次第に海底油田などを掘るようになり、ここに来て、シェールガスやシェールオイルが出てきました。

「人間が採掘可能な資源は常に拡大していく」時代だったのです。産業革命からの100年強という時代だけを見ると、非常に特殊なのですが、「自然が無限であるかのごとく」という時代をつくり出してしまいました。

しかし、いずれ限界が来ることは誰が考えてもわかります。ある意味、シェールガスを掘っていること自体、もう限界に来ていると言えるのかもしれない。むちゃな掘り方をしているわけですから。

実は、当時は、食料問題としてもずいぶん議論されました。経済が拡大していくとすれば、企業で働く人たちも無限に増え続けることになります。その人たちはどこかでご飯を食べないといけないわけですから、その食料を提供できるのか、という議論です。

食料を無限に提供するためには、農地が無限になければいけない。多少は品種改良や農業技術の改良で増やせるでしょうが、「多少は」ですから。そうすると、どこかで食料の問題で行き詰まってしまう、という議論もけっこうありました。

しかし、その問題についても、先進国では、問題がないかのごとくの展開でした。それというのも、「足りなければ買ってくればいい」ということができたからです。ただし、そのしわ寄せはアフリカなど途上国へ行ったということでもありました。

──資本主義では、自然が無限であり、そこで働く人も無限に増えていくということだと、人口が増えつづけるということでしょうか

当時の議論は、「人口も増える」という議論でしたが、これについては、その後訂正されたと思います。ある程度まで来ると、逆に人口減少が起きますから。今の日本のように。

ただ、新しく経済が発展し続けている国では、あるときから人口が爆発的に増えていきます。その後は、安定するのか、増え方が小さくなるか、減少するか。ただ、取りあえず「経済の発展は人口を増やす」と見ておいてよいと思います。

つまり、経済は「人口を増やす」という方向を示しますが、その結果できた社会のありようとしては、必ずしも人口を増やすわけではない、ということでしょうか。日本もそうですが、そういう生活を望まない人も出てくるし、望んでも育てにくい社会ができるなど、社会のありようとしては違う動きを示すことはあります。ただ、経済の動きだけで言ってしまえば、「経済の発展は人口を増やす方向で圧力をかける」と思ってよいと思います。

──英国では産業革命のころ、「資本主義が永遠に発展するには、無限の自然が必要だ」という議論があったとのことですが、その時に、「しかし、自然は無限じゃないから、違うやり方を考えよう」となったわけではなくて、「とりあえず、無限に思える間はやっていこう」という考え方だったのですか。

結論から言うと、「自然は無限にあるものと仮定する」としたのです。この仮定には無理があることは、誰でもわかります。その無理を誰が解決するか? 「それは科学の発展である」という論法だったのです。「科学の発展は、今われわれが気づいていない問題でも解決する」と、科学への丸投げですね。

この科学への丸投げは、今でもあります。原発問題もそうです。核廃棄物が出ることはわかっているわけですから、事故を起こさなくても、将来どうするのか?が大きな問題なのです。しかし、「それは将来の科学が解決する」という具合に、困ると将来の科学に丸投げされてしまいます。科学者たちも「できるぞ」と言うことでお金を得るという構造もありますから。

──私は「白馬の騎士幻想」と呼んでいるのですが、「科学技術が解決してくれるに違いない」という考えですね。でも、本当に経済成長を無限に続けることは可能なのでしょうか

1つの大きな転換が必要です。たとえば「日本経済は」「世界経済は」とか、場合によっては、「大阪の経済は」「福岡の経済は」というレベルで物事を考えると、資本主義のメカニズムを受け入れるしかない、という話になります。

僕の場合、群馬県の上野村にもう1つ、生活の拠点があります。「上野村の経済は」というレベルになると、「みんながうまくいけばいいじゃない」という、ただそれだけのことです。

上野村では、おそらく年末くらいまでには180kWのペレット発電機が動き出します。上野村の96%は森林です。手入れしたほうがよい木や材木用には使わない部分をペレットの原料として使うことを想定しています。すでにペレット工場はあって、燃料用にはかなり使っているのですが、それを発電にも応用するということです。

上野村は、製材もやっていて材も出しますし、お盆や家具などを作る木工関係の仕事もかなりあります。ペレットを作っている人もいますし、発電も入るということになると、人口1400人の上野村で、木材利用関係で150人くらいの雇用となると予想されています。

調子が良ければ2基目の発電機を入れてもよいと考えています。ただ、山を荒らして木を出しても意味がないので、上手な集材の仕方を考えています。

ここで考えている「上野村の経済」では、GDPを増やすことは何も考えていないわけです。「村の資源を上手に使ってやっていきましょう」と言っているだけです。僕らは「伝統回帰」と言っているのですが、「元は地域エネルギーで生きていた。だから、その時代の伝統に戻る」ということです。

ただ、昔のように、「ご飯はかまどで炊きましょう」などと言い始めると、贅沢としてはよいですが、「全員でやりましょう」とは言えない時代ですから、伝統回帰のために新しい技術を使います。

そうしながら、村の中で循環系の社会ができればよい、と考えているわけです。それ以上のことは考えていません。誰も困らないで生きていければよい。村の人は自然とともに生きるのが好きですから、そういう幸せ感が地域にはあるし、共同体もまだしっかりしている村ですから、そういう幸せ感もあります。

ローカル世界を基盤にすると、拡大する必要が全くない経済を考えられます。「経済」としては、循環的に、とりあえず困らなければいいじゃないという感じで、あとは、「どういう地域社会をつくるか」で住んでいる人たちの幸せ感が出てくるのです。上野村では、「経済をどうするか」という問題と、「自分たちの社会をどうつくるか」という問題が、かなり一体的に考えられています。「経済がすべてじゃないよ」とみんな簡単に言えるのは、もう1つの社会形成の部分をみんな知っているからです。

──「上野村の経済」の話だと、拡大する必要もないし、持続可能ですね。山の木を手入れして使っている範囲では。

少なくても理論的には、持続可能な仕組みです。

──そうすると、上野村の経済や社会の仕組みと、現在日本が属している資本主義の関係は、どう考えたらよいのでしょうか?

上野村だと、そこに生きている人たちの顔が見えているんですね。自然も見えています。「そこでどうしたらうまくいくかな?」という思考になるのです。

それに対して、巨大スケールの経済は、数字で把握するしかありません。数字で把握する経済というのは、「GDPが増えなければ失業者が100万人増える」とか「全体的に賃金が下がる」という経済です。そして、それをまた数字で解決しようとします。そうすると、GDPが増えないと、つじつまが合わなくなってくるわけです。

バブル崩壊以降に、日本が「成長しなくなった」と言われました。実際には緩やかに成長していたのですが。「もう一度成長軌道に戻そう」という動きが出てきます。

一方、かなり多くの人たちが、「成長、いるの?」と思うと思います。自分が生きていく世界の実感としては、「これでいいじゃない」という感じですね。家にはモノがあふれているし、むしろ減らしたいくらいになってきている。それが実感なのですが、全体を数字的に帳尻合わせしようとすれば、そうはいかないということになります。

つまり、「巨大スケール」での物事の考え方と、「スモールスケール」「ローカルレベル」でのものの考え方は、まったく違うということです。近代は、「巨大スケール」で動いてきた時代ですが、今、「スモールスケール」で考える人たちが出てきました。

──近代と言われましたが、巨大スケールで考えるようになったのは、いつくらいですか?

経済で言えば、市場の支配権を取ることによって自分たちの基盤をつくっていったわけですから、いや応なく巨大スケールにならざるを得ないわけです。はじめは、たとえばイギリスの国内での巨大スケールの話だったかもしれませんが、次には、ヨーロッパ地域での巨大スケールの話になっていく。市場としてアフリカとかアジアが開発されれば、今度はそこを含めた巨大スケールになっていくということです。

──日本がそこに入っていったのは? 戦前はどうだったのですか?

日本の場合は、江戸期から生糸といった特殊な国際商品がありましたが、ほとんどの地域は、いわば「ローカル商圏」を持っていました。

──ローカル商圏の中だと、お互いの顔も自然の顔も見えて、成長の必要がない。みんながうまくいっていればいいよね、ということですね。

そういうことです。「日本中の経済が巨大スケールをにらみながら行く」というのは、戦後というより、高度成長期の後期から、と言ってよいくらいだと思います。

──そうすると、まだそんなに経っていませんね。

ほんのわずかです。この50年くらいと言ってもかまわないくらいですね。

──今ではそれがすべてみたいになっていますが......。おっしゃるように、巨大スケールではなく、「成長、ほんとにいるの?」とか、里山資本主義のようなな動きが出てきています。またローカル商圏に戻っていくのでしょうか?

「戻れるところは戻ったほうが有利だ」ということがわかってきたということです。東京などには、「ローカル商圏に戻れるのか?」という問題がつきまといますが、上野村のような規模ではできます。

もちろん上野村だって、外から買わないといけないものもありますから、その分は何か村から出すことになります。その場合、「個人の経済」ではなく、「地域の経済」になるのですね。たとえば、「上野村から年間1億円の農産物が出荷されました。その代わり、外から1億円買わなければいけないものもあります」と、そういう形で経済をとらえていくのです。

1億円を村から"輸出"する場合、何が輸出可能か?を考えます。自然を荒らしては仕方ないので、自然を守ることを前提にしながら、何が出せるか。現在のうちの村だと、キノコ類を中心とした農産物、一部の加工食品、あとは観光ですね。そのあたりで、自分たちが外から買わなければいけない分だけお金が入ってくればいい。「ローカル地域」という単位で考え、そこで帳尻が合っていればいいわけです。

──外から買わざるを得ないものが増え続けなければ、生産して売る物も増え続ける必要はない。必要な分を買える分だけ、作って出せばいいということですね。

そうです。

仮に僕が上野村でホテルを始めたしましょう。じゃんじゃん大きくして、ついには巨大ホテルにして、バンバン団体客を呼ぶ。成功しそうもありませんけど(笑)、やったとします。

それは、村にかなりの負荷を与えます。しかし、放っておけば、個人はそういうことも考えるわけです。ただ、地域社会の中に、「ここは地域経済なんだよ」という考え方がかぶさっている。僕が、ホテルの客室を100室にしょう、500室にしようと考えたとき、「それは、地域社会にとってプラスになるのか?」ということも考えざるを得ないのですよね。

──それがさっきおっしゃった、経済と社会が一体化しているということでしょうか。共同体があるから、東京ではかからない歯止めがかかるんですね。

そうです。

写真:内山 節さん

──ローカル商圏や地域経済に、戻れるところは戻ったほうがいい。そういう動きは広がっていると思いますが、でも、日本全体が資本主義をやめたわけではないですよね?

「来年から資本主義をやめましょう」なんて言うと大変なことになってしまうでしょう。かなりの強権によって、一度国民全員を公務員にするくらいのことをしてやり直さないと、たぶん社会が維持できません。

そういうことを求めているわけではなくて、「できれば将来増やしていきましょう」というのが、今の改革の方向だと思います。

ローカル経済のようなものをもう一度つくり出し得るところは、やっていけばいい。海士町だって、ローカル経済だけど、外にもどんどん出しています。それもあるからこそ、海士町のローカル経済が成り立っている。そういうことも含めて、できるところはどんどんやっていけばいい。

あと、もう1つの傾向として、日本の社会では、しだいに家業経済が増えていくだろうと思っています。

もともと日本の経済は、ほとんどが家業でした。農家も、職人も、商人もそうです。家業というのは、持続を優先させる経営をやってきたわけです。うまくいくかどうかは別としても、考え方としては、「子々孫々まで、100年後も1000年後も続く」ということを考えて、家業をやったのですね。

そのとき、持続性を担保するのは何か? 日本の考え方ははっきりしていて、それは「信用だ」ということです。

100年も500年も家業が続くとすると、その過程では予期せぬことが起きるということを前提にしているのです。火事になって全部燃えてしまうこともある。自分の家が火を出さなくても、もらい火をしてしまうこともあります。地震もあれば、台風もある。誰かの保証人になっていたら、そちらがつぶれてしまうとか、長い間には何でも起き得る。

そういうピンチになったときにも持続させるための担保は何かといえば、それは「信用」だ。そこで、ひたすら信用を高めるためにやっていく。そうすると、困ったときにみんなが応援してくれる。だから家訓があったのです。家訓というのは、「こういうことをしたら信用をなくすよ」という教えなのです。

大半の家業は、自営農や家族が生活できる程度の商店など、小さな規模です。息子がいれば息子が後を継ぐ。しかし、家業って、意外と養子が多かったのですね。血筋よりも業をつなぐことを優先したのです。

娘や息子がいても、後継者には無理という場合は、娘や息子には困らない程度の資産を与えて、婿と嫁を両方養子で取って跡取りに据えることをしていました。血筋以上に業の継承が重要だったのです。

今の時代は、自分の子どもが継承するということに固執すべきではないですし、養子という制度も別に必要ない。事業継承者をはっきりさせながら受け継いでいけばよいのです。農業では少しそういう動きが始まっています。誰かやってくれる人を探して、その人が農地を受け継ぐ。

こういうときの相続の仕方などの問題を、きちんと法整備すべきです。実子だと有利だけど、違うと大変だとか、日本は明治になって、血筋優先の家制度を作りましたから。これは、それまでの伝統の考え方にまったく反するものでした。それまでは業中心でしたから。

自分は、どういう形で将来にわたって継承されていく業を起こすか? そのとき、自分の子どもが跡を取らないことも当然あり得るので、そういうときには、どのようにスムーズに業の継承者をつくっていくか?

地方の商店街などは、このことに失敗してきました。業の後継者をつくっていないのです。だから、子どもが継がなければ、シャッターも下ろしてしまう、というもったいないことになります。

これから、家業的な形で仕事することを希望する人たちも増えてくると思います。今、シャッターが下りたような地方商店街でも、若い人たちがシャッターを開けて、新しい仕事を始める取り組みが、それなりに出てきています。地域にそれを仲介する不動産屋ができたり、地元の建築関係者が関わっていたり。

そういう人たちのほとんどは、「うまく回っていく経済さえあればいい」と思っていて、将来フランチャイズチェーンをつくろうとか、全然思っていないわけです。地元の人たちが喜んで来てくれるような店で、何とか回っていますというのでいい。

こういう動きの中には、新しく家業化していくものができていくでしょう。業の継承や、それをたやすくするための法整備などが必要なのだと思います。

そういうものが広がり始めると、だいぶ雰囲気がかわっていくでしょう。たとえば、今、大学生が就職活動をすると、「どこに勤めるか」しかほとんど見えません。そのとき、「こういう道もあるよ、こういう道もあるよ」というのが見えてくると、大学時代の過ごし方も変わるかもしれません。

──そういう兆しは見えつつありますね。戻れるところから戻っていくという。

戻っていくと思います。もっとも、大量生産型のものも残るとは思います。たとえば、軍手など、同じものでいいものは、大量生産でいい。むしろ大量に作ることで、安く手に入るほうがいい。電気製品や自動車も、多少の選択はあるにしても、基本的には、自分と同じものを持っている人がこの世の中に何万人もいてもいい。そういうものは大量生産効果があるということですから、大量生産型のものも残るだろうと思います。

ただ、そういう仕事は面白くないから、だんだん、「やむを得ないときに働く場所」へ移行していくと思っています。100年ぐらいのスパンの話ですが。

僕が初めてヨーロッパに行くようになって35年ぐらいたちますが、あのころ、ヨーロッパ中でばかにされていた国がイタリアでした。GDP的に言うと、経済はガタガタだし、政治は1週間単位で政権が代わる、というような国でしたから。

しかし、それから20年くらいたつと、みんなが「あれ? イタリアって、ものすごく強い国なんじゃない?」と思うようになってきた。その理由として、イタリアには大企業がほとんどないのです。フィアット、アルファロメオグループと、次になるとアリタリア航空くらいで、イタリアでは、大量生産品なんて、ほとんど聞いたことがない。衣類やバッグ、化粧品も少しはあるかもしれませんが、そんなものでしょう。

たとえば、イタリア全体としてはワインの生産量が大きいですが、イタリアにサントリーのような会社はないのです。家業に近いような、小さな醸造所ばかりです。

イタリアでは、靴などもたくさん作っていますが、ほとんどが家業の延長線上ですね。町の靴屋が自分で作って売っていて、地元の人が「靴はあそこでなきゃ」と言って買っている、という世界でしょう。

そのために、つねに長期低迷とも言えるのですが、低迷してもすごく強い。

もう1つ、イタリアでは、共同体、コミュニティが強い。そうすると、景気が悪くなって、仮にお店の売り上げも半減したとしても、家業的に自分でやっているものだから、半減したなりにやっていれば何とかなる上に、コミュニティで支える感じがありますから、そんなに困らないし、そういう生活はけっこう楽しい。

そうすると、不況になっても、人間がハッピーでいられる、大企業を持たずに、小さなものがわけの分からない形で展開している社会の持っている強さ、ですね。

最近イタリアでは、「経済危機が進行した場合、一番もろいのはドイツだ」と言われたりしています。ドイツは企業中心の世界ですから。日本だって、自動車メーカーが全滅しただけで、すごい数の失業者が生まれますよね。

Q. これまで日本も世界も経済成長を続けてきましたし、説明していただいたように、仕組み的にこれからも続けざるを得ないところがあるのだと思いますが、経済成長がもたらす犠牲があるとしたら、どんなものでしょう?

もちろん、自然に対する負荷もかかりますし、そういう犠牲もありますが、経済成長していくことを目指す社会は、「個人の社会」をつくっていくことになります。共同体のままで経済成長をめざすということはないからです。共同体でも、長期的に見たら多少経済が大きくなっていたということはあるかもしれませんが、それを目標とする社会ではないのです。

経済成長を目標とする社会は、「GDPを増やしていくには、それだけの労働力があり、それだけの消費者がいる」という構造ですから、「社会の個人化」を促進すると考えたほうがよいということです。

ですから、経済規模が大きい国はどこでも、「個人の社会」という性格を強めていきます。今、そのことによる社会的負荷、問題点が大きくなっています。

たとえば現在、東京で高齢の方が亡くなったとき、お葬式もなく、手を合わせる人がいないという人が10%います。全国的には5%くらいです。人が亡くなったとき、盛大なお葬式はやらなくてもいいと思いますが、少なくても「知り合いくらいはやって来て、手ぐらい合わせてくれる」というのが、人間社会の姿だろうと思います。しかし、それが維持できなくなってきているのです。そこまで孤立無援な社会をつくったということです。

このことに象徴されるような問題が至るところに出てきています。それらはすべて、日本の高度成長期を含む戦後の結果にすぎない。まさに個人の社会をつくったわけです。

──もともと、アメリカのように個人の集まりでできている社会ではなくて、共同体ベースで、「生かされている」という感覚の日本の社会が個人化していくというのは、相当無理があるように思えますが。

アメリカでも、先住民は別として、はじめは、キューブリック的に言えば、「世界の食いっぱぐれ」が集まってきて、食いっぱぐれ同志のコミュニティができたわけです。十分なものかどうかわかりませんが、まったく孤立無援で人々が生きたわけではない。それなりのつながりはつくったと思います。

ヨーロッパでは、僕はフランスくらいしかわからないけど、フランスの場合、「一族」というコミュニティは、日本よりはるかに強いですね。家族の結束がすごく強い。今、崩れてきていますが、もともと労働者共同体も強かったですね。

ですから、近代社会というのは、一面で「個人の社会」を形成しながらも、個人の社会では無理な部分は、何らかの形のコミュニティ的なものをつくっていくということでした。

ただ、コミュニティができてしまうと、資本主義の発展にとってはむしろ阻害要因になります。労働者共同体が強いと、経営者が思うようにいかなくなる。「一族」という形で動かれると、一族支配など起きてくる。

ただ、資本主義という経済は、「まったく自由にやっていい」ということになると、墓穴を掘る経済なんです。なぜかと言うと、原理が簡単すぎるんですね。はっきり言えば、「儲ければいい」という経済なのです。法に触れない範囲でね。利益の最大化が最大の目標なので、絶えずそれを目指して動きます。

利益を最大化しようとすると、労働者の賃金は低いほうがいい。あるいは、クビを切りたいときはいつでもクビを切れるほうがいい。独占的な市場を獲得すれば、値段をつり上げたほうがいいということにもなる。だから、まったくモラルとは関係のない、むちゃくちゃなことをやる仕組みでもあります。

そこに、逆に歯止めをかけるような形で、資本主義の原理からすると"阻害要因"のようなものが働いてくる。そのことによって、資本主義は逆に健全性をつくり出し、持続性を確保する、という不思議な仕組みなのです。

賃金は安ければ安いほうがいいと言いましたが、本当に安くしてしまうと、市場規模が縮小し、自分たちの首を締めることにもなります。そこで、労働組合が出てきて、ある程度の賃金を持っていってしまう。その時点では、経営者は「まいったな」ということになるのですが、それが逆に、市場を拡大させることにもなる。

日本の高度成長期など、毎年春になると春闘があって、けっこうベースアップしていました。そのたびに経営者は、「こんなことやったら経営できなくなる」などと言うのですが、その結果、市場を拡大して、自分たちも利益を得ていたのです。

このように、阻害要因が、逆にプラス的な要素を発揮するということなのです。「伝統的な考え方」もそうです。伝統的な倫理観などをみんなが持つことによって、野放図な経営ができなくなります。しかし、それが逆に経済安定をもたらすのです。

資本主義は放っておくと自滅してしまう仕組みなので、阻害要因が出てくることで、その瞬間には「まいったな」という感じにはなりますが、ちょっと長い目で見ると、それがむしろ結果として、経済発展を促すことになります。

それは、資本主義に反対する人たちにとってもジレンマです。資本主義に反対して闘争することが、逆に資本主義を延命させてしまうことになりますから。

環境問題にもそういう面があります。環境問題が課題になり始めて、いろいろな保護運動や反対運動が起きて、企業が好き勝手にはできなくなっていく。

たとえば、排気ガス規制もそうです。その時の経営者は、「明らかに過大な排気ガスの浄化を要求された」と感じます。ところが、結局それが日本の排気ガス技術を向上させた。「あまりむちゃくちゃな開発をやっては駄目ですよ」という話になったことで、逆に安定的な開発ができるようになる。

このように、「絶えず何かが歯止めをかけていることが、資本主義の健全性の担保である」という不思議な仕組みになっているのです。

ところが、今の日本では、歯止めがだんだんかからなくなってしまった。労働組合も力はないですし、今の政府は歯止めをかける気は全然ない。そうすると、やりたい放題になるわけです。

GDPを増やすのが良いか悪いかは別として、実際、歯止めがかからないために、日本の経済の首がだんだん締まってきていることも確かです。やりたい放題になってから、非正規雇用も増えました。非正規雇用の人たちはだいたい年収200万円の層ですから、当然ながら、そんなに大きな購買力は持ちません。それが、若者のモノ離れやクルマ離れを促進しました。

「それでいいじゃないですか」という見方もありますが、資本主義の側としては、それでは困るわけです。自由にやったがために、自分たちの市場を縮小させたのです。あそこでもっと強い何らかの圧力をかける動きがあって、たとえば、「非正規雇用なんか駄目ですよ」ということになれば、それなりの仕組みでやらざるを得ないから、資本主義にとっては望ましい方向に行ったのかもしれない。

Q. 持続可能で幸せな社会をつくりたいと、みんなも思っていると思います。そのとき、「持続可能で幸せな社会」と「経済成長」の関係性をどうとらえたらよいのでしょうか? 資本主義そのものをつくり直す必要性があるということでしょうか?

そうですね。結局、ローカルスケールの経済を、いかに広げていくか、そこしかないと思います。それが地域でできるところは地域でやればいいし、新しい形の家業的な形でできる人はそうすればいい。

たとえば、ケーキ屋さんを開くとか、ご夫婦でやっている若い人がけっこういるんです。そこではたぶん、1万人のお客さんは要らないんですね。1日にたとえば、100人くらい、場合によっては30~40人が買いに来てくれれば回る経済でしょう。

30~40人来るためには、その10倍か20倍くらいのお客さんが必要かもしれないけど、5万人、10万人は絶対要りません。来てくれる人たちを大事にする経営をすればよいのです。

そういう経済がいろいろな形でできていくときに、通常の資本主義型の経済がだんだんと限定された領域に移っていく、押し込められていくという形の変革だろうと思います。

もちろん、別に夫婦だけでやらなくてもよいですし、従業員がけっこういたりしてもかまわないのですが、ただ、「規模の限界」というのがある。規模の限界とは、業種によって違うかもしれませんが、大ざっぱに言って、「300人くらいを上限とする」というくらいのイメージかなと思います。

なぜかと言うと、300人くらいまでだと、みんなが1つの目的を共有できる。「こういう方向で行こう」というのを共有して、経営陣もそういうことを大事にする人だったら、みんなでそれなりに相談したりしながらやっていくことが不可能ではない規模です。

ところが、300人を超えると、社員を管理する部門を独立させないといけなくなってくる。管理部門を独立させると、人事部や総務部といった仕事が会社の要になり始める。そうすると、「みんなで頑張ってやっていこうね」という会社ではなくなってしまうのです。

──これまでは「規模の経済」という話ばかりを聞いていましたが、これからは「規模の限界」を意識することですね?

そうです。今の社会では、明らかに「規模のデメリット」がはっきりしてきています。上野村で、木質系ペレットで発電するとして、今回設置する発電機を3台、つまりあと2台付けたら、ほぼ100%以上、村の電力は賄えてしまうでしょう。山だらけの村ですから、それくらいの木質系資源はあります。

これも人口1400人程度の村だからできるのです。明らかに、小さいことが有利です。小さいから、森を荒らすことなく、必要な量のペレットの生産が可能なわけです。

実際には、そう思っていないだけで、東京のようなところは、スケールの大きさがデメリットになっていると思います。

不特定多数の人たちを相手にする商売をやっていこうとすると、人が集まる場所が必要になりますが、せいぜい数百人のお客さんがいて、その中の1割ぐらいが来てくれればいいというくらいの経済だと、安定的な関係の中で経済を営むことができます。不特定多数が集まる必要はないのです。

大きいことが、実は有利になっていない。企業で働くことを考えても、大きい企業はうっとうしいことも多く、人間的に働くことも難しかったりする。いろいろなところにデメリットが出てきてしまいます。

結局、ビッグスケールでものを考えること自体、デメリットしかもたらさないということです。たとえば、「日本の家族はどうあるべきか」と考えたら、答えは出ないでしょう。だけど、「わが家族はどうしたらいいでしょう」という話なら、お互いの条件を考えながら、この辺で手を打ちましょうかとか、対応できます。

──ビックスケールの限界や問題に、みんな直面したり気づいて、戻っていくのでしょうか。

戻れるところから戻っていくのですね。いきなり全員が戻るとは思わないけれども、今、確かに、そこを戻そうとする人たちが、いろいろなことをやっている時代ではあります。

僕には、いろいろな意味で、傾向の共通している仲間のような人たちがたくさんいます。まだまだ大丈夫です、という感じです。ただ、そういう人たちは、昔のように全員まとまって街頭に出てきてデモしたりという形ではなくて、やっているから、見えにくくなっている。そこが見えずに、今の政治状況などを見て、困ったなと思っている人が増えているようにも思います。

写真:内山 節さん


インタビューを終えて

前からじっくりお話をうかがいたかった哲学者の内山先生。「それが正しいかどうかに関わりなく、資本主義という仕組みは経済成長を必要とするのです」「科学への丸投げ」「巨大スケールとスモールスケール・ローカルレベルのものの考え方はまったく違う」「家業経済が増えていく」「大企業がほとんどないイタリアの強さ」「経済成長を目指す社会は"個人の社会"をつくっていくことになる」「規模のデメリット」など、本当に大事なことをたくさん、とてもわかりやすく教えていただきました。

「結局、ローカルスケールの経済をいかに広げていくか、そこしかない。それが地域でできるところは地域でやればいいし、新しい形の家業的な形でできる人はそうすればいい」――自ら上野村に生きていらっしゃるからこその説得力のある言葉、多くの人々が共感し、励みとするのではないでしょうか。

取材日:2014年7月24日


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