100人それぞれの「答え」

写真:大串 哲史さん

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株式会社オオクシ 代表取締役

大串 哲史(おおくし てつふみ)さん

ずっと欲を持って追いかけ続けていくと、最後には無になる

Q. 経済成長とはどういうことだと思っていらっしゃるでしょうか

非常に深い、大きなご質問をいただいたと思います。問いが7つありますが、まとめてお話ししてもよいですか? 私は京都の比叡山で仏教を少し勉強しているので、その話を少し交えながら話していきたいと思います。

仏教には三毒、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)というのがあります。「思ってはいけないこと」です。貪というのは欲です。欲はあってもいいんですけど、欲はかきすぎてはいけない。瞋は怒りです。痴は愚痴や文句です。本当はあと2つ、疑・慢――疑というのは疑う、慢というのは慢心――というのが付くのですが、よく言われるのはこの三毒です。くり返しますが、仏教で「貪」というのは、欲はいいけど、かきすぎてはいけない、ということです。

孔子の儒教にも、「とん」というのは架空の生き物で出てくるんですね。孔子の儒教には、けもの偏が付いて「とん」という想像上の生き物が出てくるんです。これがすごくて、何でも食べちゃう。最後には、太陽も食べちゃうんです。それで真っ暗闇にしてしまうのです。

真っ暗闇の中でも欲をかきつづけ、「まだ何かいないか」と探すわけです。そうすると、向か動いているものがある。食べてみると、自分の尻尾なのです。最後は自分自身も食べてしまって無になってしまう。ずっと欲を持って追いかけ続けていくと、最後には無になるというのが、儒教が言っている欲の考え方です。経済成長と関係ないかもしれませんが。

経済成長は何かというと、幸せとは何かにつながっていくことと思います。幸せは何かというと幸(さち)だから、モノも必要だと思うんです。だけど、すべて対極があるじゃないですか? 経済成長があることによって失っていくものが必ずあります。必ずトレードオフの関係がある。

これも仏教の中に出てくるのですが、「ちょうどいいところ」という話があります。人に聞いた話ですけど、お釈迦様が悟った時に、厳しい修行に倒れて、スジャータという人に助けられて、粥をくれます。

そこへたまたま、船乗りをしている親子が船に乗っていて、お父さんが子どもに琵琶か何かを教えているんです。「弦は引っ張りすぎると切れる。緩めると音が出ない」と。ちょうどいいところでしか音が出ない。そのちょうどいいということが、非常に大事なのだと話をしているわけです。

お釈迦様はそれを聞いて厳しい修行をしすぎても緩すぎてもいけないちょうど良いところが大事なのだと思うわけです。「緩いのも駄目だし、厳しすぎるのも駄目だし、ちょうどいいところがすごく大事なのだ」と。 "ちょうどいい"ということがわかる人が、ある意味悟った人なのかもしれません。難しいですが"ちょうどいい"ところがパッとわかるというのが非常に重要なのです。「中道」とか「中庸」いう言葉もありますね。

経済成長も、対極にあるものとバランスを取ったときでないと、せっかくの豊かさも幸せにつながっていかないのかなと思います。

そうすると、対極にあるものは何かをよく考えないといけない。たとえば、心の部分。「モノの反対は何か?」といったとき、よく「物心」と言いますから、「心」の部分の幸せがないといけないのかもしれません。「幸せ」という字は1本足りないと「辛い」という字になります。どちらか欠けると、ただ辛いだけになる。

今の日本の物質的な部分が、まだ足りないのか、足りているのかというのは、人それぞれの感覚だと思いますが、仮に足りているとして、その対極にあると思われる心の部分がすごく幸せなのかどうか。

経済成長の対極にあるものが「心」なのかどうかわかりませんが、心だとすると――心の幸せって、意外に測れないのかなとも思うのですが――、心の部分での「幸せだな」と思う感覚が手に入らないと、いくら豊かな生活をしても満たされない。欲を際限なくかきすぎて「もっと、もっと」となってしまう。

僕らは今、ちょっと前なら皇帝しか食べられなかったものを毎日食べているわけです。今から60年、70年前の人なら、もしかしたら一生口にしないようなものを、僕らは毎日食べているわけです。「さらにもっと」と本当に望んだほうがいいのか、という疑問はあると思います。

昔の日本人が幸せだったかどうかわかりませんけど、江戸時代など昔の日本に非常に興味があります。心が豊かだったと思われるものが結構残っているじゃないですか。建物にしてもそう。心の豊かな人でないと造れないなというものが、いっぱい残っているような気がします。

その心の豊かさはどこから来たのか、日本人の和の心はどこから来たのかというのを、いろいろな人に勉強させてもらっています。ある人が言っていたのですが昔の日本人は、「神道から精神、仏教から教え、儒教から道徳」の3つを取って、「和の心」を身に付けたのだと。

心が少し成長してくると、成長に合わせたものが生まれてくる。たとえば、このグラスは、誰か思った人がいるわけですね。「こういうグラスにしよう」と思った人がいなければ、形にはなりません。必ず心が現象になって表れてくる。

心のレベルが上がってくれば、日本独特の和の心が高まってくれば、それに合わせて様々な現象、世の中が形になって表れてくると思います。

だから今、海外の人たちが日本に来て見たいのは京都だったりするのは、「あの建物が見たい」というのもあるかもしれないけれども、日本人の心の高さというか、民度の高さというか、そういうものに触れたい、日本独特の文化に触れたいからじゃないのかな、と。

宗教論じゃないですけど、心の豊かさがないと、海外と似たり寄ったりの建物しか建てられない。今のほうが物質的には豊かかもしれませんが、仮に昔の人の心が貧しかったとすると、心が貧しかった人たちが、あのようなものを造れるかというと、ちょっと「?」が付くかな。

心のレベル、民度は昔の方が非常に高かった。心の高さがあったのかなと私は思います。そのヒントは、神道から精神、仏教から教え、儒教から道徳を学んで、その3つがきれいにバランス取っていたこと。この和の心を持った人達の中からすごい人が出てきて、その人たちが造ったのだ、と。

もう1つ、80ちょっとくらいの人生の先輩に教えてもらったことですが、日本人というのは、「正しいか、正しくないか」で生きてきたんじゃない。「美しいか、美しくないか」を判断基準にして生きてきた。

たとえば、経済成長というのを掲げて、「正しいか、正しくないか」と言うけれども、もともとは「美しいか、美しくないか」。そうだとすると、欲をかきすぎても美しくない。途中で止めたほうが美しい、引いたほうが美しいときもあるし、質素にしていたほうが美しいこともある。

「美しいか、美しくないかという判断基準で生きてきたんだ」とその方に言われて、すごくそんな気がしたんですね。茶道にしても華道にしても、すべて「道」を付けて、しぐさまで美しさを競うという。作法にしてもそうです。日本独特の考え方じゃないかなと思っていて。

「美しいか、美しくないか」という判断基準で、さっきの3つ、「道徳」と「教え」と「精神」を混ぜて、そういう部分が昔の日本人の心の根底を支えて、昔の建物にその心の形が現れているのではないかと。海外の人達がこれをみて建物からそれを作った人達の心の高さを受け取って感動してくれていると私は思います。

現在は経済成長の中で、経済成長に対して、心の部分を高める方法がないと、最初の話の「貪」のように、際限がないわけです。「もっともっと」となる。そちらの部分も高めていくことが必要なのかなと。

ただ、どうやってそれを測るのかという話になりますが、人が幸せだと思ったときは必ず、何かの数字に表れていると思うんです。たとえば、「安心しているから人口が増えた」というように、何かの目盛りに表れているかもしれない。

その時代の幸福度が高まったら、何かの数字が表れるものであれば、それを経済成長と一緒に見ていく。そういうバランスを取っていかないといけない。1個だけを高めるんじゃなくて、しっかりバランスを、ちょうどいいところ、弦の音が出るちょうどいいところを見つけていかないと、無限に経済成長というのはあり得ないと思っているので、どこかで破たんしますよね。両方のバランスを取るところを探さないといけない。

エダヒロ:今おっしゃった、無限の経済成長はあり得ない、どこかで破たんするというのは、どのあたりからですか。

仏教の考え方でもあるのですが、おなかいっぱい食べると、誰か食べられない人がいるから、おなかいっぱい食べちゃいけないんです。私が今日少しがまんすれば、誰か1人が食べられるという考え方です。

京都の比叡山でお箸に付いたものをコンコンと小皿に入れて、どうするのかなと思ったら、庭に置くんです。それは餓鬼、つまり、目に見えないものにまで分け与えるためです。

地球全体で考えるとき、パイは決まっている。私たちがずっと追いかけていけば、どこかで食べられなくなる人が出てくる。無限に生み出せればそれでもいいです。そういうふうに考えている人もいると思いますし、頭のいい人たちはそう言うかもしれないけど、はたしてそうなのか、私は疑問に思います。

得るものと心を満たす方法にも、ヒントがあります。「天国と地獄の差」という話です。地獄でも天国でも、でかい釜でうどんを茹でていて、みんな長い箸を持っているんです。天国では、お互いが長い箸で食べさせてあげるんですけど、地獄は取り合いをする。長い箸だから刺したり、たたいたり。

同じ水1杯でも、奪って飲んだ水と、与えてもらった水は違う。たとえば、同じ水一杯でも、「いっせいのせ」で交換して相手にあげて相手から笑顔でもらって飲むと、分け与えるというのが加わるので心も満たされるし味も違うような気がします。

奪うではなく、与えるものは与えて、得るものは得させてもらいながら、心の部分の豊かさもあるような経済成長ができるのであれば、それが可能なら、それが唯一の方法なのかなと思います。奪ってまでというのは、どこかで心が寂しくなって、豊かになっても満たされないというのが永遠と続くような気がします。

Q.  物心のバランスがとても大事なのですね。 大串さんも経営者ですよね。たくさん社員やその家族がいる。今、「アベノミクスで経済成長」、企業の人たちも喜んでいる人が多いように見えますが、経営者として、経済成長をどのように考えられていますか?

物価が上がれば、お給料を上げていかなければいけないですよね。お給料を上げていくためには、生産性を上げないといけない。生産性って難しくて、あまりやりすぎると現場から笑顔が消えるんです。全部、時間管理をやっていたら、笑顔がだんだんなくなってきます。笑顔がつくれるある程度の余裕というか、ゆとりも残さなきゃいけない。そこも見極めなきゃいけない。生産性だけを上げるというわけにいかない。人はそんなに単純なものではないです。

不思議なもので、生産性をどんどん上げると、リターン率は落ちてくるんです。社員が笑顔で、お客様が喜んでくれてと考えると、生産性を上げながら社員も笑顔でお客様も喜んでくれるという"ちょうといいところ"は1点しかない。生産性も上げられて、リターン率も取れて、スタッフも笑顔でいられる、会社も儲かるというのは、実は1点しかないです。そんなに何個もない。

会社が利益を追いかけすぎて、生産性だけ上げていけば、現場からは笑顔が消えて、お客様も来なくなります。やはりどこかに限界があります。"ちょうどいい"というところが必ずあります。

エダヒロ:多くの経営者は利益や生産性ばかり見ているけど、大串さんは経営者として、現場の笑顔なども見ながら、そういう1点を探している。

うちの場合、指標がいくつかあり、偏らないように努力しています。必ずトレードオフの指標を見ていきます。リターン率と回転率と離職率も見ます。そうやって対極にあるものを見るんです。

経営者として私がやりたいのは、「生産性を上げましょう」ではなくて、トレードオフの関係にあるものの両方を上げたいんです。シーソーの真ん中の三角を伸ばすということです。真ん中にある三角の部分を伸ばすのが、本当の意味での成長だと思います。ところが、シーソーの片方だけ伸ばそうとすると、必ず片方を失います。真ん中にある三角を伸ばして両方を上げるのが、本当の意味での成長です。

エダヒロ:生産性を上げて離職率も下げられたら、一番いいわけですよね。その「真ん中の三角を伸ばす」というのはどうやって?

生産性を上げながら回転率を上げるということ、現場の中には、やれている子がいるんです。生産性を上げながら、笑顔で。あの子はなぜやれているのか、と考えると、こういう無駄をやっていないね、と。そうしたら、無駄を省いてあげる。良いところは真似をする。それでもやっぱり限界があります。

エダヒロ:もともとそういう思想で経営をやっていらしたのですか?

そうじゃないですけど、売上を追いかければ人はいなくなるし、リターン率を追いかけていくと生産性が落ちるし......。どうしたものかという悩みの中で、どれかいいほうを取ろうとしたときに、違うなと思いました。「両方というのもあるんだ」と。どちらも大事ということがあると。僕らは子どもの時から○×ばかりやらされているから、ついどれか1個を取ろうと思うんだけど、実は両方とも大事ということがあるじゃないですか。対極にあるものでも、両方とも必要で、両方とも大事という物事って、いっぱいあると思います。

比叡山戒光院住職髙山良彦(たかやま りょうげん)先生に仏教を教えてもらった時に、先生が言ったことに驚いたのは、「本当の教義は正解がないのが正解」とおっしゃった事です。「そもそも正解がない」という正解がある。

答えがないものも、世の中にはいっぱいあって、「正解がない」という正解もある。皆さん、何でも答えを出そうとするけど、実は正解がない、という答えもある。まさしく「経済成長は?」なんていうのは、多分正解がない問いだと思います。

ただ、それでも何とかほじり出そうとすれば、経済成長の対極にあるものと、バランスのちょうどいいところを見つけて、それをスッと伸ばせるとき、それが本当の意味での経済成長。

対極のものと両方のバランスを取ったら、"ちょうどいいところ"がある。それは、高めれば高めるほどいいというものではなくて、"ちょうどいいところ"がある。ちょうどいい1点がどこかにあって、そのちょうどいい1点を見つけたらすごいと思います。
ちょうどいい1点は自我を無くし相手と自分の差をなくす努力をしていかないと見つけられません。感情が入りすぎていたら絶対に見つけられないものです。

国全体でもそうかもしれないけど、個人でもみんな感覚が違うので、本当の意味で"ちょうどいいところ"を見つけるのは非常に難しいと思います。ただ、対極にあるものとバランスを取っていきながら、"ちょうどいいところ"を見つけようという議論をしていくことは、おそらく美しい議論になると思います。対極にあるものも見ていけば、違うものも見えてくる。今まで見えていないものも見えてくる。

ちょうどいい、調和したものって、美しいじゃないですか。黄金比率って、1対1.6だったりする。なぜあれが美しいと思うのかわかりませんが、仏像でも何でも美しいと感じると、きれいな比率になっている。

たぶん、美しいものは1点しかないんじゃないかな。それを見つけていこうという議論をするのであれば、「経済成長とは?」という問いももっと違う議論になるのかもしれないのかなと思います。


インタビューを終えて

カットチェーン「オオクシ」の大串社長は、父親から1店舗の理容室の経営を引き継いだ後、稲盛和夫氏の主宰する「盛和塾」で経営を学び、12年連続での2桁成長を続けています。多くの経営賞を受賞、盛和塾の第20回世界大会では「世界一」に輝くなど、秀逸な経営者として知られている大串さん。「12年連続での2桁成長」と聞くとどんな凄腕経営者なのだろう?と思うでしょうけど、大串さんは非常に謙虚な物静かな方です。お話し下さった"大串哲学"がオオクシの躍進の原動力であることを感じました。

仏教の三毒の貪(とん)、儒教の「とん」という架空の生き物のお話もとても面白くうかがいました。「経済成長と関係ないかもしれませんが」と添えていらっしゃいましたが、「ずっと欲を持って追いかけ続けていくと、最後には無になる」というのは、まさに経済成長そのもののことではないかと思いました。

大串さんの考え方の中核にあるのは、対極にあるものとバランスを取った、たった一点の「ちょうどいいところ」を見つけること、そして、トレードオフの関係にあるものの両方を上げること。それが「本当の意味での成長だと思います」との言葉、深く考えさせられました。経済成長についてだけでなく、経営者としても多くの気づきをいただきました。

取材日:2015年3月19日


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