100人それぞれの「答え」
100
認定NPO法人 環境文明21 共同代表
加藤 三郎(かとう さぶろう)さん
日本の、たとえば二宮尊徳や石田梅岩が考え、主張した言葉を現代語に訳しても、経済学の教科書に書いたようなロジックには乗らないけれども、江戸時代にも3,000万人を食べさせる「経済」はあった
- Q. 経済成長とはどういうことでしょうか
-
その前に、「成長」という言葉についてですが、「成長」と「経済成長」とはずいぶん違うと思っています。
「成長」自体は、私も3人目の孫が昨年の夏に生まれまして、まだかわいい盛りです。孫が成長していくというのは、とてもいいことだと思うんです。フィジカルに大きくなるというだけでなくて、メンタルにもスピリチュアルにも豊かになっていくのはとてもいいこと。
だから、「成長」自体は決して悪いことではないと思いますが、「経済成長」というのは事実上ほとんど、GNPのことだと思うんですね。GNPが3%伸びたとかいう話だと思います。
GNPの具体的な中身は、「生産」と「消費」が中核だと思うんですね。「経済成長とはどういうことか、何が成長することですか?」と聞かれれば、生産と消費が共に、金銭で表示された物的なものが増加していくことだと思っています。
- Q. その経済成長は望ましいものですか
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人間としての尊厳を維持するのにも足りないような状況にある人は、日本にもアメリカの中にもいます。一般的に貧しい国、途上国は人間の尊厳が守れない、たとえば食べ物が足りないとか、飲み水がないとか、居住状況が衛生的に極めて劣悪であるとか。そういう所にとっては、経済成長は望ましいと思います。
しかし、日本など、先進国といわれる所、物質的な条件がかなり満たされている所では、望ましいとは思わない。その理由は明確で、いわゆるエコロジカル・フットプリントのような分析を待つまでもなく、生態環境が極めて劣化した状況になっているからです。
別の言い方をすれば、地球の環境自体が定員オーバーの状況になっていますよね。気候変動の科学やエコロジカル・フットプリントなどの分析によれば、地球全体では、本来許容できる状態から5割ぐらい増えている。
そういう状況の中で、特に先進国の約10億の人たちは、物的には相当満たされているわけですから、そういう所でさらに経済成長を追求するのは、望ましいことだとはとても思えないし、必要だとも思わないし、可能だとも思わない。
- Q. 必要ではないし可能ではない、ということで、次の2つの問いにも答えていただきましたが、何か追加があれば。
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繰り返しになりますが、すでに成熟した豊かな社会では、経済成長は必ずしも必要ではない。ただし、豊かな国でも、人間として十分尊厳が維持できないような人は結構いるわけです。
たとえば日本で言えば、シングルマザーの家庭など、年収が200万円にも足りない世帯が多い。母親、あるいは父親が1人、体がボロボロになるまで働いているとか、そういうこともありますので、そういう人たちに対しては一概に、「経済成長は必要じゃありません」と言うことは倫理的ではない。
ただ、日本全体、先進国全体で見れば、明かに飽和しているわけですから、あとはむしろ分配の問題になります。分配がうまくいっていないから、年収200万円にも満たないような人が日本にも結構おり、しかも、数が増えているということになる。
アメリカで言えば、1%対99%。「We are the 99 percent.」と考える人たちが増えつつある。そこは分配の問題として考えなくちゃいけない。
さらに、地球には非常に貧しい人たちもまだ10億人以上います。その人たちに対して、「経済成長は必要じゃないですよね」と言うのは倫理的だとは思わない。
これも、地球全体トータルで見れば明らかに、物的には豊かな状況になりつつあるわけですから、国内の問題と同じように、人類社会全体の分配の問題になるんですね。
ですから、国際会議――気候変動問題であれ、この間あった国連の災害防止の会議であれ――、途上国と豊かな国との間の資金や技術の分配問題が大きな問題になるのは、まったくその通りだと思います。
- Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、あるとしたらなぜ、何でしょうか
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いろいろな面で犠牲はあります。
それを語る前に、さきほど「分配」ということを言いましたが、その分配が難しいんですね。政治的にも理念的にも難しい問題を抱えているのです。
──理念的......? どういう問題ですか?
人類社会、特に西洋社会を中心に、過去2世紀前後、「自由」というものを非常に大事にしてきました。思想や言論の自由、政治結社の自由のほか、どういうビジネスをやるかというビジネスの選択にしても、自由が一番大事だ、と。
その自由を維持する中で、自由競争をやってきたわけですね。「自由競争」「自由」というコンセプトの中で、「人は自由に努力しなさい」と。早く走れる人は早く先へ行っていいですよ、あまり努力をしなくて、あるいは才能がなくて遅れるのはしょうがないですね、と。だから、「自由」とか「自己責任」という言葉があるわけです。
それに対して、たとえば最近日本でも非常に話題になったトマ・ピケティ教授みたいに、「自由だ、自由だと言っていると、特に20世紀以降、格差が非常に強くなってしまう」という人もいる。彼はそれを何とかするために、国際的な税を富裕層により多く課税して、その収入を貧しい人にできるだけ回していくことが必要だと主張されている。
それに対して、典型的に言えばアメリカの共和党支持者みたいに、「人間にとって自由は何よりも大事で、その自由の下で制限なんかすべきじゃない。政府が介入したり、自由の結果、金持ちになった人に制限をかけるなんてとんでもない」と言う人たちから見ると、ピケティ的な考え方は間違った考えだ、ということになるわけです。
そういう考え方は今の日本の中にもあります。アメリカの共和党ほど強烈ではないけれども、「人の自由は非常に大事だから、それを制限するのは良くない」と。だから日本でも、金持ちに税金をかけようとすると強く反対される。反対する理由として、「そんなことをやったら金持ちは外国に行っちゃいますよ」みたいな、そういうレベルに落とし込んで議論しているわけですが。
いずれにしても、「分配を適切にすればいいんだ」という「分配」は、政治的にも難しい。まして――ここは非常に大事な点だと思いますが――、「民主政治」がかなり怪しくなってきている今日、分配を適切に行うのは困難だと思わざるを得ないんですね。
なぜかと言うと、お金を持っている人たちが、自分たちの権益を守るために「ロビイング」(ロビー活動)をやる。ロビイング自体は決して悪いとこだとは思っていなかったのですが、お金にあかせてどんどんやっていくというのが、特にアメリカの政治で顕著になってきましたね。連邦最高裁が、「政治的な資金に制限をつけるべきじゃない。お金を出したい人がいれば、無制限に出したっていいじゃないか」という主旨の判断を示しましたね。「自分の思想・心情を実現するためなら、それに合った政治家に無制限にお金を注ぎ込んでもいいじゃないか」というのが、「自由」というものを大事にすると出てくる1つの帰結なんです。
その帰結によってどうなったかと言うと、たとえば気候変動問題についても、石油・石炭関連の業界は手厚い献金を用意して、議員たちにロビイングをし、実際にお金も出して懐疑論なるものを流布させて、必要な対策を取るのを遅らせる。銃の規制だとか、最近の例で言えば、アメリカで非常に大きな政治力、お金を持っているユダヤ人社会がイスラエル支持のロビイングをやりました。
そうなると、本来、政治の形態としては理想だと思っていた議会制民主主義は、かなりゆがんできている。
日本でも、アメリカほどではないけれども、政治がゆがんできている。ヨーロッパも、アメリカほど露骨ではないけれども、いろいろな問題を抱えている。
そういう意味でも、もう一度戻ると、「お金のある人により多く課税をして、所得の再配分をやろう」という政策が、非常に取りにくくなっているのが問題だな、と。
そういうことを考えると、かつて江戸時代はどうだったかを想起する。江戸時代というのは、「お金がある人、力がある人がどんどん伸びて、貧しい人や力のない人は死んでもしょうがない」ということではなかったんだと思います。「助け合い」「分かち合い」の心があった。
儒教倫理とか、あるいは仏教とか、そういうもので「分かち合い」ができていた。具体的には、たとえば上杉鷹山(1751~1822年)。山形の貧しい、財政的に破たんしかかった米沢藩に、若い時に殿様として入っていった上杉鷹山という政治家がいたわけです。当時、殿様は生活面で結構浪費していたのですが、彼の場合は「一汁一菜しか食べない」と。
要するに、「私は殿様だから何をしようと勝手じゃないか」という自由思想ではなくて、むしろ殿様だからこそ、領民の生活の安定のために、今で言う所得の再配分みたいなものを意識的に、倫理的にやったわけです。
じゃあ、日本には上杉鷹山しかいなかったかというと、そんなことはなくて、ほかにもたくさん似た例がある。上杉鷹山は、その中での典型的な例でした。
もうちょっと時代を下ると、二宮尊徳(1787~1856年)。尊徳の場合は、殿様ではなく、むしろその逆だけれども、彼も同じような、倹約と新田開発を旨として、力のない人、弱っている人を、とにかく必死になって助ける。
それに対して、アメリカのように、「力のある人がどんどん力をつけて何が悪いんだ」といって、「自由」や「自由競争」というものに対する、原理主義的な賛成をする所だと、どんどん差が開くと思います。
だって、競争したら、お相撲と同じで、どっちかが勝って、どっちかが負けるわけですから。だから、3,000人いようが、1万人いようが、10億いようが、その中で徹底的に競争していったら、勝者は最後に1人しか残らない。あとは累々たる敗者の山になっていくわけです。
だけど、日本が江戸時代以前に持っていた政治思想や倫理観はそういうものではない。「力の強い人がいくら勝ってもいい」というのではないのですね。
私が、江戸時代の倫理や思想などに関心を持つのは、そういう理由です。だから、江戸時代以前に日本人が持っていた知恵を探り出して、西洋世界が何世紀もかかってつくってきた経済観や倫理の観念を、もう1回見直そうじゃないかと、こういう表(図1)をここに持参しました。
(図1:現下の世界に厳しい苦境をもたらした原因)これまでよしとしてきた、自由の尊重。そのこと自体は否定するわけじゃない。民主主義だって非常にありがたい。グローバル化していくのも、科学技術が進展していくのも、まったくその通り。
だけど、それが結果として、この表に挙げたようなものをもたらしてきたんじゃないか、と私は思います。「自由をやるとこうなります」と単純なことを言っているわけじゃないけれども、その結果としての自由競争で、結局、強い者勝ちとなり、それで格差が拡大していく。アメリカで言えば、1%対99%みたいな構図になる。資本主義という今の経済ではピケティ教授が盛んに言っているようなことになる。弱肉強食で、結局、社会全体の活力が失われていく、貧しい人たちばかり、累々たる敗者みたいなものをつくり出していって、社会トータルとしては活力がなく貧しい社会になっていくんじゃないか。
それから、「言論の自由」や「表現の自由」は大事なものだともちろん思うけれども、それを原理主義的にやると、「銃規制をするのはおかしい」「銃を持って何が悪い」「こんなに危ない世の中だから、ますます銃を持つべきだ」という話になっていったりする。「裸になりたい」という人がいたら、「裸だって別にいいじゃないですか」「その人たちが裸で町を歩きたいと言うんだったら、歩かせればいいじゃないですか。自由なんですから」と。
というような議論をしていくと、社会の秩序や安定は、結果的に失われていくんじゃないか。要するに、これまで長いことよしとしてきた、「自由」だとか「民主主義」とか、そういったものをもう1回再構築する必要があるんじゃないかと、最近私は強く考えています。
京都大学の佐伯啓思教授の著書『自由と民主主義をもうやめる(2008年幻冬舎新書)』は非常に面白い。タイトルだけ見ると、反動的な、何たる人かと思うかも知れない。私も大胆なことを言うなと思いました。「自由や民主主義をもうやめよう」と言うんだから。
だけどもちろん、不真面目でも何でもなくて。「自由」がもたらす問題点や、「民主主義」の限界みたいなものを指摘している本です。私は佐伯さんとまったく同じ考えというわけではないけれども、こういうことを言っている人が、少なくても私より先にいたんだなと思います。
──これはすごく大事な表ですね。しかも転換の可能性、方向性も書いてある。これをこれから作っていかないといけないですね。
繰り返しになりますが、私は「自由は駄目だ。こんなもの、やめろ」と言っているわけではありません。民主主義も、「こんなもの駄目」と言っているわけでは全然ない。
ただ、放っておけばこうなる。いろいろな問題が出てきて、今回の「経済成長」の問題とも非常に絡むから、こういうことを考えないと駄目かなと。
経済成長の犠牲の話に戻すと、いろいろな犠牲が既に出ています。
人類規模で経済成長を追求した結果、環境面から見ると、地球の環境容量を超えてしまったということ。これはエコロジカル・フットプリント分析が明瞭に示していることでよく知られていますね。「今のアメリカや日本のような生活を70億の人がやったら、地球はあと何個いるか」というたぐいの話です。
地球の環境容量を超えてしまった結果、具体的に何が起こっているかと言うと、端的には気候変動であり、生物多様性の大幅な喪失、そして、化学物質が至る所に、微量ではあるけれども染み込んでしまっている。
私も最近記事を読んで、うーんと思ったのは、マイクロプラスチックです。海に流れていったプラスチックが、海の中で一種の化学作用や風化作用そして、光に当たることでどんどん分割していって、微粒子状となり魚などの生き物に入っていく。これも化学物質汚染の1つの問題ですよね。いずれにしても、こういう問題が止まらない。
犠牲になったものとしては、社会的な問題もあります。社会面でも貧富の差ですね。貧富の差はいつの時代でもあって、江戸時代だってもちろん貧富の差はあるんだけど、許容できるくらいの範囲の差だったと思うんですね。
だけど今の貧富の差は、人間の尊厳を否定するぐらいのレベルの貧がたくさんある。21世紀の今でも、たとえば電気を使えない人。電気はまだいいほうだけど、安全な食品や水にアクセスできない人がたくさんいるとか、衛生的な条件も非常に悪いとか、そういう人たちが沢山いる。
その一方で、まったく同じ時間帯に、極端に豊かな人がいる。たとえば、よく言われている話ですが、アメリカの大企業のCEOは、従業員の200倍以上の給料をもらっている。それでも「まだ足りない」みたいなことを言ったりしている。
こういうことが出てくると、単に金持ちがいていいとか、貧乏人がかわいそうだという問題でなくて、社会全体の安定性がおかしくなってきていると思うんです。テロ集団に惹きつけられる若者が増えてくるとか、ISのような非人道的な組織にもたくさんの若者が引きつけられてていくというのも、ヨーロッパでは若者の失業率が20%や30%、ギリシャやスペインでは50%近いから。
そうすると、社会の秩序は守れないですね。働く場がない若者をそのままにしておいて、「あいつら、努力しなかったから失業したってしょうがないよ。おれは一生懸命働いているんだから、金を儲けて当たり前だ。自由じゃないか」という議論だとすると、とんでもない。人類社会の一体性や価値を、大きく損なう状況になっている。
その上に、精神的・文化的な損失も非常に大きいと思っているんです。精神的というのは、宗教的な価値だとか倫理観ですね。経済に焦点を絞り、自由競争の下で、しかもグローバル化していった。さらにその上に、とんでもない技術がいろいろと付け加わってきた結果、そこに精神面や文化的な面が追いついていけない。これは、極めて大きな問題じゃないかなと思います。
だから、犠牲ははるかに大きい。一握りの豊かな人がいる反面、社会全体の力は劣化していく。
アメリカのジョセフ・スティグリッツ教授の本を読んでいたら、彼はアメリカ社会のトータルな損失を非常に憂えている。ビル・ゲイツみたいな極端な金持ちがいる反面、多くの人が貧しくなっていって、家庭を維持したりコミュニティを維持したりすることもできなくなってきて、アメリカの社会をトータルとして見ると、劣化している、と。なるほど、そういうことかと思いました。
翻って日本はどうかなと思うと、今やっている経済成長政策は、将来の生活保護世帯を一生懸命つくっているようなものだと思うんです。たとえば、沢山の若者たちを、非正規労働者として使い、きちんとした訓練もさせないで、その場しのぎの労働力としてしか使っていない。それでも就職している人はまだマシかもしれないけど、就職していない人もいる。公的教育の場でも非正規教員の数がどんどん増えて教員の質も、劣化していく。
つまり、今、10代、20代の人たちが50代、60代70代になったときに、基本的な生きる力に欠けているとすると、生活保護とか、そういうところになだれ込んでいくだろうと思います。なだれ込んでいく人たちがどんどん増えていくと、社会全体としては、力が非常に退化していく。
江戸時代から明治にかけても、もしGNPで比べたら、当時は今とはけた違いに低かったと思います。でも、日本の社会全体が、教育を大切にし、寺子屋で勉強させておくとか、「足るを知る」とか、「そんなことやったら、お天道さまに顔向けできないよ」とか、「そんなことやったら、ご先祖様に怒られる」とか、いろいろな言い方で、人間力というか、そういったものをかなり養っていたと思うんですね。
そのような基礎力があったところに、明治維新以降、新しい西洋的なやり方がなだれ込んできた。それをうまく吸収しながら伸びていったから、短い期間で、封建時代の日本から、近代的な日本に、かなりスムーズに変わっていけた。
戦後も、戦争で灰燼に帰したけれども、多くの人の心までは失われていなかった。ということで、また盛り上がる力ができてきたと思います。
だけど、今のような、「金持ちはもっと金持ちになりなさいよ、貧乏な人はしょうがないですね、あなた方は努力しなかったんだから」というような政策を続けていくと、20年、30年、40年で、生活力もなく、倫理観もない、そういう人たちが日本社会の中にどんどん育っていくとすると、社会のトータルとしての力がすごく減ってしまうと思います。
スティグリッツさんの本『世界の99%を貧困にする経済(2012年徳間書店)』を読んで、最初は何を言っているのか、ちょっとわからなかったけれども、よく考えてみると、なるほどそういうことなんだと。「自由競争を野放しにしておくと、そういう結果をもたらすのだ」ということは、非常に大切だと思っています。
──「日本が経済成長で失ってきたもの」が次の問いですが、今お話しくださいましたね。特に環境面については、加藤先生は対策を打つ側として対応されてきたんですね
ええ。若いときから今に至るまで、公務員として27年、NGO/NPOとして23年で半世紀ほど一筋です。
- Q. 最後の問いですが、「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係をどう理解したらいいんでしょう?
-
基本的には、21世紀全体を見ると明らかに、「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」はまったく相反すると思います。
ただ、豊かな国の中にも貧しい人たちがいる。70億の人類社会全体にも、ほんとに貧しい人たちがいる。その人たちにとってみれば、ある程度の経済成長はもちろん必要。しかし、地球全体ではもはや、環境容量を大幅に超えている。
残される道は2つしかないと思います。1つはトータルにcollapse(崩壊)していく、破局に行く。
もう一つは破局に行かないで、われわれ日本も含む先進国の人たちが自ら、多少なりとも不便さを甘受し、物質面で生活水準を落として、国内的にも国際的にも貧しいほうにお金が行くようにして、トータルとしては、とにかく環境容量の中にギリギリ収まっていく。
もしそういう世界ができれば、質の面を重視する「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」は成り立ち得ると思います。ただ、そこへ行くのは政治的にも社会的にもかなり大変だと考えれば、基本的には、経済成長と持続可能で幸せな社会は相いれないと思います。
──経済のつくり直しをしていかないといけないという問題意識で、こういうインタビューなどをさせていただいているのですが、加藤先生は、そのあたりはどのように考えていらっしゃいますか? 環境分野をずっとやってこられて、経済が大きな問題だと考えていらっしゃる。
私自身、ハーマン・デイリーさんと枝廣さんの『定常経済は可能だ!』を極めて興味深く読みました。それ以前の枝廣さんの著書も何度も読みました。
ただ、1つだけ残念だと思うのは、日本には江戸時代にいろいろな知恵、「足を知る」などがあるのに、それが西洋の学者に参照されていないこと。日本の伝統社会が持っていた知恵は確かに、今までの西洋的なロジックではうまく説明できないかもしれない。
ある経済学者が、「加藤さん、"足を知る"なんて言ったら駄目ですよ。数式にならなかったら、そんなものは学問でも何でもない」と言うわけです。それは、私が好きな経済学者で、だから私に率直に言ったのだと思うんだけど。「"足るを知る"だの、"和をもって尊しとする経済学"だとか、そんなものは学問でも何でもないですよ」と。
じゃあ、西洋起源の経済学は何をもたらしたか?ということです。誰でもよく知っているように、アダム・スミスは道徳哲学から入っているんですね。道徳哲学から入って、「市場経済の祖」と言われるような人になった。ケインズにしたって、「経済学は数式で表せばすべて解決できる」なんてバカなこと、全然考えていないわけです。
日本では、二世紀余にわたる江戸時代――人口規模で言うと約3,000万人。江戸時代初期の1,000万台から出発して、最後は3,000万人強になっている――、その間に大きな戦争もなく、文化・芸能も栄えた。
もちろん、内部を細かく見れば、人権抑圧などもあったでしょう。権力批判の言論の自由はなかったし、嬰児の間引きや姥捨て山とかもあったでしょう。だけど、トータルとして見ると、心豊かで平和であり、持続可能な社会を長期間維持した。かなり学ぶべき知恵があるのではないかと思います。もう1回、これを西洋的なロジックの中で、西洋人も理解できるロジックとランゲージで説明する努力をすべきだと思います。
だけど、私の知る限り、江戸時代の経済を勉強している学者はいるんだけれども、その人は西洋経済学とはまるきり無関係です。
繰り返しますが、日本の、たとえば二宮尊徳でも石田梅岩(1685~1744年)でも、彼らが考え、主張した言葉を現代語に訳しても、経済学の教科書に書いたようなロジックには乗らないんです。乗らないけれども、江戸時代にも3,000万人を食べさせる「経済」はあった。一方、西洋経済学は何をもたらしたんですか、と。今日のような不安定で持続性を失った人類社会をつくっているのに、あなた方、どう思っているんですか、経済学はこれしかないと思っているんですか、と。
私はうちの会報『環境と文明』の2012年12月号に、「ノーベル経済学賞はなぜ日本に来ないのか」というのを書いたことがあるんです。日本人は、ノーベル物理学賞、化学賞、文学賞などをもらっているでしょう。だけど、経済学賞だけはない。なぜないかと言うと、日本の経済学者は、とにかくアダム・スミスだ、リカードだ、つい最近ではハーマン・デイリーだ、ピケティだと、みんな西洋の後を追い、解説するのに精いっぱい。
私は、ここが非常に重要だと思っている。私は学者じゃないから、学者的なロジックやランゲージは知りませんが、日本の伝統的知恵の今日的価値の探求を何とかやっていきたいと思います。
ハーマン・デイリーさんが、旭硝子財団のブループラネット賞をもらいましたね。国連大学での受賞者記念講演発表に行くと、私は大抵質問するのですが、今回、ハーマンさんの時は、別の用があって行かれなかった。もし行っていたら、「ハーマン・デイリーさんの3原則はもちろん素晴らしいけれども、日本でもいろんな持続可能な知恵があったのは、ご存じでしょうか? 何かコメントがありますか?」というようなことを聞きたいと思ったんだけど。枝廣さん、私に代わってハーマンさんに聞いてみてください。
──多分、ご存じないと思います。
知らないと思うんですね。日本で、たとえば、葛飾北斎の絵や広重の絵は、西洋絵画に大きな影響を与えているわけですね。われわれが想像する以上に、西洋のアーティストたちに影響を与えています。最近では、和食や日本酒まで世界で評価されるようになりました。これには言葉は必要ないですから。
だけど、経済学とか経済思想というのは、言葉抜きにあり得ない。絵を1枚描けば、アダム・スミスの経済学をパッと理解したなんて、あり得ないわけですね。
アダム・スミスでもリカードでもピケティでも、彼らが理解できる言葉で、石田梅岩の言葉を訳しても、「何じゃ、これは」ということになると思います。ロジックがまるで異なるからです。だから、もう1回それを経済学的に再構成する必要はある。その再構成の努力を、日本の経済学者はしていないんじゃないか。そこが非常に不満です。
そう思って、何人かの高名な経済学者に私は手紙を書いたことがあります。でも誰からも返事は来なかった。
「返事が来ないのはけしからん」と言っているのではなくて、多分彼らにとっては理解できないのかもしれない。何で江戸時代のカビが生えたような、しかも体系もなく、数字でも何も表せない、統計資料があるわけでもない、何でそんなものが学問なんだろうと思ったとしても不思議ではないかもしれない。今までの日本の経済学徒の勉強の仕方を見ているとね。
枝廣さんは、外国人を含めて、そういう人たちと接する機会が多いと思うから。
──そうですね。特に西洋でも、感度のいい人たちは、西洋にはもう答えがないと分かっているので、東洋に答えを求めて、禅や仏教など勉強している。日本人よりも極めている人たちもたくさんいます。私も、石田梅岩とか、ちゃんと勉強したいと思いつつ、私のような経済の素人にもわかるように教えてくれる先生や本に、なかなか出会えなくて。二宮尊徳さんについてはいろいろな本が出ていますが、経済学的な、もしくは経済手法としての切り口というのは。
経済学的にはほとんどないですね。もちろん、石田梅岩とか、そういう人たちのことを一生懸命勉強している日本の学者はいますけれども、その人たちは経済学として見ていない。
一方で、経済をやっている人たち、環境経済学だとかと言っている人たちは、それこそハーマン・デイリーとか、そういう人たちの流れを一生懸命追っているだけで、日本の先人とのつながりがないんですね。
──そこをつなげる勉強会みたいなのって、できないんですかね? すごく大事ですよね。
私は、日本が世界にできる貢献の最たるものだと思います。何も、「日本が優れているんです」とか、「石田梅岩がすごいんです」とか、自慢するつもりではないけれども、片方の経済学を始めとする社会科学は、はっきり言うと、結果的には破たんしつつある。学問的には、ロジックとしては破たんしていないかもしれないけれども、それがもたらした社会のあり様は破たんしているわけですから。
一方で、江戸時代の経済学――当時は、「経済学」なんていう言葉すらないわけだけれども、学問としては、西洋的な、「まず定義をきちんとやって、公理・原則を定め、仮説を立てて、それを立証していく」という、西洋では古典ギリシャ以来ずっと発展させてきた学問の伝統には乗らないわけです。
だから、今のところは水と油以上のものがある。でも。私が言いたいのは、結果的にこちらは良かったじゃないですか、ということです。片方は、学問としては見事にできて、体系的にきちんとしているけれども、それがもたらした結末は、混乱と不幸じゃなかったですか、と。自由・平等・人権すべて、そのこと自体はいいけれども、21世紀の世界にそれがもたらしたものは惨たんたるものではなかったか、ということですね。
それなら、西洋が持ってきた学問とか理念とか哲学とかを、この辺で見直さなくていいんですか、ということです。おっしゃったように、西洋の中でももちろんちゃんとわかっている人はいますよね。
まず小さな勉強会でも何でも、始めてもいいと思います。私たちが今やろうとしている「グリーン経済」の取り組みもそういう一環なんです。私たちが考えてきた「グリーン経済」というのは、どちらかと言うとやや東京中心の、環境問題に関心を持っている人たちがつくってきたものだから、地方などに持っていくと、「何じゃこりゃ」という話になるかもしれない。
実際に中小企業で社長として苦労している人たちから見ると、どういう見方をするんだろうか。「こんなものは、インテリたちの遊びですよ」と言われるのか、そういうことを確かめていきたいと思っています。
ただ、私自身ももう75歳ですから、そんなに時間がない。だから若い人たちに――共同代表の藤村コノエさんは私より十数歳若いし、枝廣さんはもっと若いから、そのような人にバトンタッチをしていきたいと思います。
特にあなたは、国際社会と接点が多いわけですから、ぜひそういうことをやってください。あなたが付き合っていらっしゃる方は、皆、良質な西洋文化人ですよね。そういう良質な人なら、わかるはずです。
──JFSからずっと世界への情報発信をやってきましたが、世界から一番評価が高くてたくさん転送された記事は、江戸時代の話なんです。2回ぐらい書いたことがありますが、「自分たちが探し求めている持続可能な社会が、もう日本にはあったんだ!」という大きな反応がありました。「江戸時代はすべてをリユース、リサイクルする植物国家」だったという、石川英輔先生のご本を借りて書いた記事です。二宮尊徳もそうだし石田梅岩も、どこでわかる形で経済的な側面も話してくれる先生がいるか、まず探さないといけないですね。探してみます。
私の知る限り、あまりいないですね。もちろん、二宮尊徳の研究者やファンはごまんといる。石田梅岩を一生懸命やっている人も沢山いる。だけど、今日話したような問題意識で、石田梅岩をこっちへ持って来て、アダム・スミスとくっつけていくとかはなかなかですね。
──この間、ハーマン・デイリーさんと話していた時に、本にも書いてありますが、今の経済学部に進学した学生は、アダム・スミスも全然読まないし、定常経済のようなものに触れもしない。経済学の勉強が新古典派から始まってしまうので。
特にアメリカはそうですね、ヨーロッパはわからないですけど。アメリカはかなりひどいです。知識人までが全部そうだとは思わないけれども、アメリカは「自由だ、自由だ」ということで、しかもそれにお金が付いて。
スティグリッツは、「アメリカの民主主義はいまや、1人1票ではなくて1ドル1票になりつつある」とまで言っています。今のやり方でいけば、そうなりますね。
日本も、アメリカほど極端な国ではないけれども、日本だって結構ね。
──最近ヨーロッパで、経済の再構築に取り組むグループやネットワークが出てきています。そういうところで、日本の石田梅岩とかをちゃんと勉強できて説明できたらいいなと思っているんですけど、まず自分で勉強しないといけないので、ちょっと考えてみます。手伝ってくれそうな人がいないか。
私が送らせてもらった『環境の思想~「足るを知る」生き方のススメ~(2010年プレジデント社』という本はまさにそういう本ですから、もう1回読んでもらってもいいかな。3人の人を出しているんです。田中正造、福沢諭吉、そして夏目漱石。
なぜこの3人を選んだかと言うと、いずれも、幕末の江戸時代に生まれているんです。基本的には江戸的な教育を受けています。福沢と夏目漱石は、比較的若い時にヨーロッパやアメリカの世界をよく見ているわけですが、田中正造はヨーロッパやアメリカに行ったことは1度もない。農村出身の人ですけど、それでも寺子屋で「四書五経」だとか、日本的な学問を勉強した。そういう教育を受けた3人が、西洋文化がドッと流れてきた時にどう反応したかというのが面白くて、私なりに書いてみたんですけど。
慌てる必要はなないですけど、できたら、枝廣さんの周辺にいる、国際社会もよく知っている人で、なおかつ日本の文化を気にしている人がいれば、私たちと一緒に少し勉強して。
今、西洋の世界は非常に苦しんでいるわけですから。本年1月のパリでの風刺新聞社に対する銃撃事件にしたってそうですよね。「表現の自由は絶対的だ」と叫んでいる人は多いかもしれませんけど、一方、エマニュエル・トッドみたいに、「ほんとかね」、という人もいる。表現の自由って、そんなに無制限に主張できるものなのかと、疑問に思う人もフランスにもいるわけです。
日本の憲法もいろいろな自由を保証していますが、「公共の福祉に反しない限り」となっているんですね。私たちNPOは、ご存じかもしれませんが、憲法に環境原則を導入すべしと提唱して、この10年活動しています。その中で、「公共の福祉とはそもそも何だ」というのを議論した。私たちの結論は、公共の福祉とは、「持続可能な社会をつくる、維持する」ということだ、と主張しています。
現行の日本国憲法だと、恐らくヨーロッパ、アメリカの憲法だってそうでしょうが、言論の自由や表現の自由が、無制限に許されるはずはないと思うわけです。もしかすると、今どんどんそちらに向かっているかもしれないけど。
たとえばポルノなんか、隠すべき表現は隠さないといけませんよというのが、ヨーロッパ社会だって当たり前だったのが、どんどんそれを外していって、自由なのだから「どうぞお好きなように」と。「お好きなように」としてみんなが幸せになったかと言うと、全然ならないと思います。
同様に、「金を儲ける人はどうぞ自由にいくらでも儲けてください、儲けられなくて貧乏でいたいという人は、どうぞ貧乏でいてください」ということにはならないと思います。
日本の場合は、戦前ぐらいまでは「足るを知る」とか、「分不相応なことはしない」とか、一種の行動規範というか倫理観、そういうものでコントロールしながらやってきた。というのは、すべて自由にしたら、人間なんてとんでもないところに行っちゃうんだ、との認識が社会で共有されていたと思うんです。
恐らくアダム・スミスは、私はそれほど勉強したわけではありませんけど、道徳論から始まったというのは、人間というのは、放っておけばどこへ行くかわからない、だから、ある種のタガをはめないと駄目なんだ、という認識をもっていたのではないだろうか。そのタガのはめ方と自由の主張の仕方は、常に緊張関係にあると思うんだけれども、そこが大事だということだと思います。
そういうのは、アダム・スミス的なランゲージとかロジックではないけど、日本人は持っていたんですね。
──そのバランスが今、完全に
崩れている。
──長い時間お話を聞かせて下さって、本当にありがとうございました。またご相談させてください。
インタビューを終えて
環境省の役人から、環境NPOの設立者・代表へと大きな転身をされ、以来市井からずっと取り組みと情報発信を続けていらっしゃる加藤三郎さん。あちこちでご一緒する機会はあるのですが、こうしてじっくりお話をうかがうのは初めてで、引き込まれてうかがううちに、あっという間に時間がたってしまいました。
大事なことをいろいろとお話しして下さいました。もっと日本のこと、二宮尊徳や石田梅岩、江戸時代のことなどを勉強しないといけないなあ!と思いました。特に、石田梅岩など、しっかり勉強して世界にも伝えなくては!と。これからも加藤さんにもいろいろ教えていただきながら、勉強していけたらと思っています。
インタビューでも言及されていた加藤さんたちのご本はこちらです。ぜひご一読いただけたらと思います。
取材日:2015年3月26日
あなたはどのように考えますか?
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