注目の取り組み事例

ホーム > 注目の取り組み事例 > 「ないものはない」~海士町に学ぶ地域再生の取り組み

Case.3

「ないものはない」~海士町に学ぶ地域再生の取り組み

「ないものはない」~海士町に学ぶ地域再生の取り組み

Copyright 株式会社 巡の環

※JFS ニュースレター No.118 (2012年6月号)より転載※
http://www.japanfs.org/ja/join/newsletter/pages/032064.html


島根県の沖合60km、隠岐諸島という4つの有人島があります。この中のひとつ、中ノ島は、「海士町」と呼ばれる1島1町の小さな島(面積33.52平方キロメートル、周囲89.1キロメートル)です。豊饒の海に浮かぶ海士町は海産物の宝庫で、古代から「御食つ國(みけつくに)」として、魚介類を朝廷などに献上してきました。神楽をはじめ、貴重な文化遺産や伝承などが数多く残る地域としても有名です。

町のスローガンは「ないものはない」。この言葉には、モノや流行の娯楽など「ないものはない;無くてよい」という意味と、自然の恵みやコミュニティ、自給自足の生活など、「ないものはない;大事なことはすべてここにある」という2つの意味が込められています。

2009年に策定された「第四次海士町総合振興計画」は、「島の幸福論」をテーマに、今後10年をかけて島ならではの幸福を追求し、住民一人ひとりが幸せを実感できる社会を目指すことを謳っています。

2008年1月29日、この町に移住した3人の若者が株式会社巡の環(めぐりのわ)を立ち上げました。代表は阿部裕志さん。2007年暮れに大手自動車メーカーを辞して、愛知県からIターンした若者です。

今回のニュースレターでは、海士町の魅力にとりつかれた阿部さんの思いや「巡の環」を紹介しながら、海士町の地域再生の軌跡を振り返りましょう。

自立への覚悟と選択

海士町の人口は2,350人。1950年の約7,000人から、4,600人近く減少する一方で、町の高齢化率は39%に上昇し、深刻な超少子高齢化が進行しています。

20代30代の生産年齢人口の減少、公共投資の急激な縮小や、地方交付税の大幅な減額などによって、島の財政は破綻寸前の状況に陥っていました。

このような町の存続の危機から脱すべく、2002年5月に町長に選ばれた山内道雄さんは、強力なリーダーシップを発揮し、大胆な改革を断行していきました。

まず取り組んだことは、役場職員および島民の意識を変えることでした。そのために自らの給与を50%カットし、人件費を含むさまざまな経費の削減を実施しました。

また、2004年3月には、住民代表や議会とともに生き残りをかけた「海士町自立促進プラン」を策定し、人口施策(定住対策)と産業振興への投資という攻めの戦略にも取り組んでいきました。

ama03.JPG
Copyright 株式会社 巡の環

島を丸ごとブランド化する

産業振興の長期戦略は、「海」、「潮風」、「塩」をキーワードに、地域資源を有効活用して、「島をまるごとブランド化」するというものです。この実現のために、(1) 地産・地消と交流人口の拡大を目指した戦略と、(2) 全国展開(外貨獲得)を目指した大規模な付加価値商品づくりが強化されました。

たとえばCAS(Cells Alive System)と呼ばれる、磁場を用いて細胞を振動させたまま凍結する急速特殊冷凍技術を導入し、細胞を壊すことなく保存することで、獲れたての状態で海士町の海産物を他地域へ販売することが可能になりました。現在この技術を用いて、特産品の白イカや養殖された岩がき、鯛、海苔などの魚介類、海草類が独自の販路を経由して、東京などの大消費地で販売されています。

2004年に政府の構造改革特区制度を活用して新規参入した畜産業では、「隠岐牛」というブランド牛を育成し、松阪牛に匹敵するといわれるほどの高い評価を得るまでに成長しました。

このようにして、町が一丸となって自立を目指したことで、海士町の地域資源を活用した新しい産業が創出され、それによって新しく雇用が生まれ、さらにこれまで第一次産業に携わってきた人も元気になる、という好循環が回り始めました。そこでの戦力となったのは、地元の人が気づかなかった海士町の魅力を掘り起こして、特産品や観光商品などの商品開発につなぐ役割を担った「よそ者」の存在です。

ama04.JPG
Copyright 株式会社 巡の環

海士町の定住戦略

阿部さんがはじめて海士町を訪れたのは2006年12月。当時の同僚から、「島まるごと持続可能な社会のモテルを目指しているおもしろい島があるから、一度来てみないか」と誘われたことがきっかけでした。

役場の課長が案内役を引き受けてくれた初訪問は、お酒を酌み交わしながら、役場の人、同世代のU・Iターンの人たちが島の未来を熱く語る場に「僕も混ぜて欲しいと痛烈に思った」ほど、印象深いものでした。

その後3度の訪問を経て、1年後の2007年5月に勤務していた企業を辞して移住を決意しました。仕事の相談をはじめ、移住後の島での日常生活のことなど、島全体が丁寧に移住者を迎え入れる環境を整えていると感じたことも後押ししました。

後に阿部さんは、役場の職員から「人口の1%の志の高い人を地域に入れると、地域が変わっていくと聞いたので、人口の1%にあたる24人の人材を集める目標をたてて頑張っとった」と聞き、2006年の初訪問の時からすでに自分に対する海士町の移住作戦が始まっていたことを知ったのだそうです。

海士町では2004年度から人口減少を「町民の生活基盤を浸食し、海士町を破壊する深刻な問題」と捉えて、住宅の問題や移住後の不安解消など、町ぐるみできめ細やかな定住促進対策を行ってきました。

その成果は、この7年間で310人のIターン、173人のUターンが全国から移住したことでも明らかです。ちなみに、2005年の移住者は91人で、これは日本の人口に換算すると1年で約450万人が海外から移住したことに匹敵する数です。

「巡の環」が目指すこと

阿部さんは、学生時代に金属の研究のかたわら、アウトドアや有機農業、バックパックなどを通じて、どうやって自分の生きる力を養っていこうかと考え続けていました。

当時のキャリアプランは、実際に企業で働いて経験や実績を積み、40歳ぐらいで起業をして、現代社会のあり方に疑問提起する空間をつくりたい、というものです。海士町との出会いで、このプランは10年ほど早まり「巡の環」が誕生したのです。

「大企業でなくても、都会でなくても、地域に貢献できる仕事をしながら、地域の方々とともに生活を楽しみ、安全安心なおいしいものを食べながら、きちんと稼いで、家族と幸せに暮らす」

「巡の環」ではこのように、暮らし(自給)と仕事(互恵)と稼ぎ(貨幣経済)が一体となった生活を実現するために、地域資源を生かして、他者や自然環境と共存できる新しい社会のあり方に挑戦しています。

特に力をいれているのが、企業や自治体、大学などの島外からの研修ツアーです。ツアーは完成されたプログラムを提供するのではなく、島を丸ごと学びのフィールドと捉え、体験と対話を通じて、参加者の気づきや発見から相互理解が深まり、各自の次のステージの扉が開くように設計されています。

ama02.JPG
Copyright 株式会社 巡の環

将来はイギリスのシューマッハカレッジのように、地球と自分たちの社会のつながりを学び、自分にとっての一歩を踏み出す学びの学校(島まるごと人間力大学)をつくることを目指しています。

また、昨年の東日本大震災発生後、被災地である宮城県出身のスタッフが中心となって、宮城県亘理町を拠点に、災害ボランティアが参加しやすく、かつ、現地の観光産業を支援するという目的で、温泉宿に宿泊してボランティア活動を行うプロジェクトにも取り組みました。このボランティアツアーにも、上記の学びのプロセスを大切にする精神が活かされています。

「大切にしたい価値観は、何を残すために何を変えるのかということです」。阿部さんが今感じている海士町で残すべき大切な芯とは、自然や先祖への畏怖など、ひとりの生涯という時間軸では捉えることができない、時空を超えて脈々と受け継がれてきた場所が持つ力や精神性だといいます。

人口流失や高齢化は、特に中山間地域や離島、最近では東日本大震災の被災地域で急増しています。場所と共にある私たちの日常の中に、当たり前のように存在する時空を超えた宝物を後世に残すために、私たちは何を変えなければならないのでしょうか。

誰もが自然と共に幸せに暮らしたいと願う未来は、経済成長やモノへの欲求とは異なる思いを通じて実現されるのではないか――海士町の地域再生の挑戦は、そんなことを私たちに教えてくれているように思えます。

 

Page Top