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半農半X研究所代表 塩見直紀 聞き手 枝廣淳子 Interview04

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最初、「半農半X」は
自分を救うためのコンセプトだった。

枝廣:
今日はお時間をいただきありがとうございます。最初に、塩見さんが半農半Xにどうやってたどり着かれたのか、そのあたりを教えていただけますか。
塩見:
ひとつは、やはり里山というような所で生まれ育ったことに影響を受けていると思います。わが家は兼業農家で、父は教員でしたが、母と祖母とお茶を作っていたし、お米も出荷をしていました。当時はまだ家族で、お弁当を持って田植えとか稲刈りをやっていました。僕らは、月の光で稲を稲木に掛けたり、一家で山に植林に行くとか、そんな時代の最後の世代です。まだ軽トラもあまりなくて。
『地球に残された時間~80億人を希望に導く最終処方箋』レスター・ブラウン著

『地球に残された時間~80億人を希望に導く最終処方箋』レスター・ブラウン著

その後、大学卒業後にたまたま入ったのが株式会社フェリシモという、80年代の後半から環境問題に取り組んでいた会社で、その会社との出会いが大きかったです。それでレスター・ブラウンさんの本を読んだり、講演会を聞きに行ったり。

そうして、いろいろな本を読みあさっていく中に農業の本を読まざるを得なくなりました。当時から自給率は低くて、農業の高齢化も顕著でしたが、今で言う「当事者」というキーワードだと思いますが、そこで自分もやらないと議論がしにくいなというのがあって、そこで「自分も種をまこう、鍬を持とう」という流れです。自分がやるのか、自分はやらないけれども「農家がんばれ」「中国の人がんばれ」というのか、は全然違いますよね。

もう1つ大きかったのは、その会社が、同期入社に芸大出が多かったことでした。商品開発を自社オリジナルで作るので、発想とかアイデアが豊かな人材と出会って、僕だけ普通の人間だったような感じがして、そこで初めて遅い自分探しが始まった。自分探しのことを僕は今「天職問題」と名づけていますが、環境問題とこの天職問題が20代の2つの大きなテーマでした。

それがちょうど90年代です。地球サミットが92年にあって、93年には平成の米騒動が、また95年に30歳になる年には、阪神大震災や地下鉄サリンがありました。そういう20代の後半を過ごして、それがすごく良かったと思います。

それから1999年、2000年、2001年と時代の変わり目に、田舎に移住した人も結構いて、「何か自分もアクションを起こして変わらなきゃ」というのがすごくありました。

そして、いろんな本を読んでいく中で、たまたま星川淳さんの「半農半著」という言葉に出会って、「これだ」と思いました。

ただ、自分は星川淳さんのように著述業をしたいとか、翻訳ができるとかというわけでもなく、法律もパソコンも得意ではない中で、自分の「半農半著」の「著」に当たるものは何かなと考えても「何もない」というのがわかるんですね。

最初は、自分の「それ」は何かというので、「it」を入れていたのですが、「半農半it」に、ある時「X」を当てはめたら、うまく四字熟語になって、「これだ」ということになりました。そして、その言葉が生まれたことによって、「こういう生き方、コンセプトを伝えたらいいんじゃないか」というミッションを得ました。

最初のころは、それを周りの人に伝えないといけないという思いもなく、自分を救うためのコンセプトでもあったので、その言葉で自分が救われたという感じでした。その後、変な意味での追い風が吹いてきて、新聞や雑誌が取り上げてくださるようになったり、「本を出さないか」という話になって。急にできたものではなく、迷いながら生まれてきたコンセプトなので、その分ある種、寿命が長いのかなとも思います。

東京に講演に来るまでにも10年かかっています。特に東京で講演しなきゃとか、出版しなきゃとは思わなかったけれども、周りが「ぜひ」とかいう形で呼んでくださるようになって、今では年間たくさん呼んでいただいています。それだけ時代が厳しくなっている可能性は十分あるかなと思います。

東京でも、ニューヨークでも「半農半X」はできる。
大切なのは農のハードルを低くすること。

枝廣:
食糧自給率が低いし、何とかしないといけないと、みんな思っている中で、自分をシステムの外側に置いて、「政府がんばれ」とか「農家がんばれ」というのもあるし、もしくは端っこの所で消費者として「応援します」という運動もありますよね。そういうものではなくて、そこに入っていって中から変えるということをされたわけですよね。
塩見:
はい。半農半Xというのは東京でもできると考えていまして、ニューヨークでもベルリンでもできます。中には、「半農半Xは地方でなければできないというように、限定したらどうか」という提案をする人もいるのですが、そうすると、今までさんざん、僕たちが悩まされてきた、都市と地方の対立という対立構造になってしまいます。
それよりも、ベランダでもいいし、屋上でもいいし、大好きな場所で、やれる所からやる。1日30分、40分でも土とか植物に触れるという、かなり緩く、敷居を低くすることで、誰でもできる。まだまだ農のハードルが高い場合もあるし、感じていらっしゃる方もあるかと思いますが、いかにハードルを低くするかが大事だと思います。深める人はどんどん深めたらいいし、それを伝える人があってもいいし、多様な役割をみんな担っていけばいいなと思っています。
枝廣:
思い切って自分で種をまこう、鍬を持とうと思われた時、それはそんなに大きな変化ではなかったんですか? たとえば「自分1人やったって、日本の自給率がすぐに変わるわけではないし、何ができるんだろう」という思いもあると思います。やはり、農業を小さい時に体で体験されていたことが大きかったのでしょうか。
塩見:
そうですね。
枝廣:
そこの一線を超えるのが結構大変な場合が多いと思います。
塩見:
まず考えたのは、食卓の自給率を0.001でも上げていくことが重要です。自分の時代に0.1上げて、次の世代が0.2にして、という発想ですね。自分の世代ですべて、本当は解決しないといけないくらいの危機的な状況であり、無力感もあると思いますが、次の世代にバトンタッチをするような「経世代型」のスタイルでいいと思います。
あとは、第一歩を踏み出せない人が大半だと思うんですけれども、「初めの一歩力」みたいなのが重要なので、何でもいいと思います。市民農園を借りてみるとか、長く会っていないおじいさんをお盆に訪ねていってちょっと手伝うとか、友だちの所に行くとか。リトルアクション(小さなアクション)を重ねていくことが重要かなと思います。
漬け物にされるのを待つ大根たち「踊る大根」(撮影:塩見直紀)
漬け物にされるのを待つ大根たち「踊る大根」(撮影:塩見直紀)
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